第10回
実篤 喉にささった小魚の骨3
ー戦時や大災害時における障害者と災害時医療のトリアージュとー
まずは、お詫びと訂正をさせて頂きます。
「“かぼちゃ”と“じゃがいも”と“玉葱”第8回」の「~喉にささった小魚の骨~」の中で、最初から2段落目で、戦時中に実篤が戦意高揚のために引っ張り出されたことについて・・・・・
『実篤の愛読者は「せめて黙っていてほしかった」のにと、忸怩たる思いの人が多いのです。あの◎谷崎潤一郎(×川端康成)はこの時期、発禁を恐れながらも「細雪」を描き続けていたのですから。』と書いてしまいました。皆さまはお気づきの事と思いますが、『川端康成』は間違いで、「細雪」の作者は谷崎潤一郎でした。お恥ずかしい限りですが、『谷崎』と脳裏に浮かんでいたのに、何の拍子か「川端」と打ち込んでいたのです。
ちなみに、「細雪」は東京出身の谷崎が第二次大戦前の崩壊寸前の「大阪船場文化の滅びの美」をあらわした作品です。戦時中の昭和17年に書き始め、同18年1月と3月号の中央公論に第1回と2回が掲載されました。大阪・船場の夫人・松子をはじめとする4姉妹の生活を題材にした大作ですが、昭和18年に軍部から「内容が戦時にそぐわない」として掲載を止められました。これにもめげず谷崎は同19年(まさに敗戦色が濃くなりつつある頃)には「私家本」の上巻を作り友人知人に配ったりしていました。これも軍部から印刷・配布を禁じられました。戦後昭和23年にやっと作品を完成させ、彼の代表作となった作品です。
さて、「喉にささった魚の小骨」の続きです。
あの「放浪記」の林芙美子が、早くから女性初の従軍文士として中国戦線の最先端に行き戦場の生々しいレポートをしました。日本の名だたる文士は殆どが戦意を高揚させるために筆を利用したのは事実です。
武者小路実篤や岸田劉生と親しかった、高村光太郎は「知恵子抄」の著者で、彫刻家・詩人として名を成していました。昭和13年に妻・知恵子を亡くし暫く意気消沈していましたが、真珠湾攻撃にはいたく感激して、これを讃える詩などを書きました。ただ、彼は、終戦前に東京のアトリエと多くの作品を空襲で焼失し、出身地である岩手県花巻に疎開したのにここでも空襲に遭い、花巻の田舎に掘っ立て小屋を建て独居・自炊を始めます。この生活は戦後も長く続き17年に及んだそうで、この間「本業」の彫刻をたっていたそうで、これには自分が自ら軍部に協力したことへの自省の念によるものだと言われています。
話し変わりますが100年以上前の話です。フリッツ・ハーバーというドイツ人の天才的な科学者がいました。窒素を空気中から固定する方法を発見した人で、その技術が窒素肥料などに使われて世界の食糧危機を救ったとして、ノーベル賞を受賞しました。その後彼はドイツ帝国軍のための研究に関わり「毒ガス弾」を開発しました。その毒ガスが1914年に始まった第1次大戦の“西部戦線”やがて“東部戦線”や全ヨーロッパの戦いを悲惨なものにしてしまいました。(注1)この毒ガス開発の功績により、ハーバーは第1次大戦中にドイツ皇帝から勲章を授ける栄誉に浴したのですが…ユダヤ人であった彼は、ドイツ敗戦後の混乱期に台頭してきたナチにより、次第に迫害を受ける様になりました。その上、皮肉なことに自分で開発した毒ガス技術が、障害者・治る見込みのない難病の患者などナチが「“国民の金を使っても、役に立つことがない”⇒“生かしておく価値がない”」と判断した人たちを大量に虐殺したこと、その虐殺が間もなく始まる「ホロコースト(ユダヤ人の大虐殺)」のリハーサルであったことが彼にも分かってきました。自ら開発に関わった殺虫剤「チクロンB」という毒ガス成分がユダヤ人・同胞の殺害に使われることは、「人生でこれほど苦々しく耐えがたい思いをしたことがない」と言わしめました。かろうじてスイスに亡命したハーバーは「これまでどんなにドイツに尽くしてきたか・・・今になってみれば吐き気がするほどの嫌悪感を覚える」と言っていました。
第2次大戦から約70年近くたったごく最近、ドイツ精神病学会が「ナチの下での精神病者などの大量虐殺に、『本来なら患者を守るべき医者』が積極的にかかわっていた」ことを明らかにしました。つまり精神病者や当時の医療技術では不治の病とされる病気の患者などを、秘密裏に精神病院や難病の病院に送り込みました。そこでは医師4人が「問診票」に「×」と記載すれば、裸にされ「シャワーを浴びるのだ」と言われて、ガス室に押し込まれました。そしてガスの栓を開けたのも医師の一人でした。虐殺施設で働く看護師や死体を焼いたり骨を埋めたりした職員たちも大勢いましたが、皆『優秀で健全なドイツ人子孫を残すため』に必要な事と思いこまされていました。前回述べた、鶴見俊輔の言うところの『お守り言葉』の呪縛にドイツ人の多くもかかっていました。
丘の上のこれらの一見精神病院と見える施設などに、毎日満員のバスが上っていき帰りのバスには誰も乗ってないこと、これら施設の煙突から毎日毎日黒い煙が上がり、ふもとの村にも臭い匂いがしてきたことに、村の人々も気づいていました。そして戦場帰りの人からは「前線で戦死者を焼いたときの匂いと同じだ」と聞かされていました。これは非道なことだ・あってはならないことだと、かなり多くの人は思いつつも、誰もそれを声に出せませんでした。大戦後生き残れた人々もこの事実を心に秘めて、封印してきました。ユダヤ人の経済力・議会への圧力が強大な米国はじめ欧州諸国から、ユダヤ人虐殺に関しては徹底的に非難され、ドイツ国民は“反省”し続けるよう仕向けられましたが、その陰で、障害者や遺伝的病や、不治の病と見做された人々への“扱い”や“虐殺”が語られることは、ごく稀にしかありませんでした。 これが問題なのです。
日本でも戦時下、兵員になれない障害者などがいる家ではどれだけ肩身の狭い思いをしたでしょう。
また最近でも、あの神戸や東北の大災害時に障害ある方々やご家族が非常に大変だったと聞きました。
「避難所の喧噪に耐えられない者」「大声・奇声を発する人」「トイレが自分でできない方」「医的ケアが必要な方」「車椅子ほかの補装具が必要な方」「形態食などでないと飲み込めない方」などなど・・・・
大災害後、多くのボランティアの方々が現場にいらして、こうした障害ある人々にも支援の手を差し伸べて下さったそうですが、まだまだ障害者に何が必要か?障害者が何を求めているのか?についてのご理解や経験が少なく、支援・介助されるボランティアも戸惑っているようでした。それだけに、日頃から、障害ある人やその家族は、障害の特性をご近所や街の人々に知って頂く努力をしなければならないのかもしれません。そして災害時・緊急時にどんな助けが必要なのかを、できる限り多くの方々に知っておいていただくことが必要なのです。
認知症に関して平成17年厚生省が始めた「認知症サポーター制度」があり、認知症サポーター養成講座を修了し「サポーター登録」している人が全国に600万人もいます。中でも静岡県富士宮市などでは、地域ぐるみで多くの方が認知症の方々について学びサポーター登録をしていると聞きました。そして認知症の方々も「自宅にひきこもり」をしない様、サポーターが積極的に誘い出すのだそうです。人とのかかわりを持つことで本人も「やる気」をだし、認知症の進み方が遅くなってきた、また妄想・暴言や暴力行為が少なくなり介助者も助かっていて、地域の人が認知症の方々の顔も知っているので、徘徊があってもすぐ見つかるし、見つけたサポーターは本人がきずつかない様うまく誘導している、等々の成果をあげているそうです。
こうした事例は障害ある人にも参考になります。
まさに地球冒険学校の活動が素晴らしい一例で、障害ある人・障害のない人・大人も子供も・一緒に楽しめる・・・このような活動が拡がりを持てるようにしていければいいと思います。そして、私たちの家族の大事な一員が、何かの時にどういう支援が必要となるかを、ご近所を含め周囲の方々、緊急時にお世話になる医療関係の方、そして通勤・通学の途中で接する可能性のある方々のできる限り多くの人、に知っておいて頂く努力をし続けなければならないと、つくづく思いました。
さらに、大災害時には「トリアージュ」が必要となります。(注2)
大災害時押し寄せる圧倒的に多数の傷病者に対して、医療の供給が全く追いつかない状況下で行われる、「限られた医療資源」を最も有効に活用し、一人でも多くの人命を救うための医療です。大混乱時に医師が見た瞬間・わずか1,2秒の間に「すぐ治療が必要」「後でも大丈夫」「もう治療の価値無い」を判断しなければならない「トリアージュ」のとき、自分の症状を訴える能力すらない障害者がどう判断されるのか、その判断にどんな思いが含まれるのか?
健常者で重傷を負っている方、傷は重いがコミュニケーション力がない認知症や知的障害者・・・わずかな医療資源を有効に使うためには・・誰が優先されるか?・・考えれば考えるほど難しさを感じます。
医療・療養・療育にかかわる方々でも、「障害」にご理解が十分かとは言えません。障害はその種類・程度・症状が個人個人で違っていて、従ってある人には「こうした方がいい」ことも別の人には「そうしてはいけない」ことも多く、健常な人から見ると「想定外」の行動をしたりします。いろんな種類の障害者に接して、それぞれの特質を学んで頂くほかありません。「トリアージュ」が必要な大災害時に、「判断」し「介助」する医療従事者や救助隊員となられる可能性のある方々にも、こうした「障害者の特質や支援方法への理解」が広まるように努力したいものです。
(注1)100年前からヨーロッパ中にばらまかれた毒ガス弾の不発弾の処理はいまだに続いており、あと300年はかかるだろうと言われています。まして中国・ベトナムや中近東などでも、毒ガスの不発弾処理は続いています。
(注2)救急医療と大災害時医療 (ウィキペディア等より)
・救急医療は、患者に対して十分な医療を供給できる環境下で行われる医療であり、いわば 「日常的に行われる医療」 の一部である。 医療関係者の手により 「患者にとって必要とされるすべての医療」 が施される。
これに対して災害医療は、事前に予測困難な災害の発生時において、急激な傷病者の増加に対して医療の供給が全く追いつかない状況下で行われる医療であり、場合によっては 電気・水道などのインフラ施設も被災し、医療機関への医療器材や医薬品の供給もストップするなど、想定以上に過酷な状況の中で行わなければならない。 混乱する現場・殺到する傷病者に対して、手元の 「限られた医療資源」 を有効に活用することで、何とか1人でも多くの人命を救うことを求められる医療である。トリアージひとつ取っても、救急医療とは「時間のかけ方」が異なる。 救急医療では一人の患者につき2~3分の時間をかけてトリアージを行うが、災害医療では、一人の患者に対し1分も時間をかけていたら、もし仮に60人の患者が一度に来たとした場合、60番目の患者は医療機関に到着後、重症か軽症かも分からない状態のままで60分=一時間以上も放置されるという事態になってしまう。実際の災害時には、患者数が60名程度で済むはずは無く、このあとに診察や応急処置・手術が待っているため、更に時間がかかる。
災害医療では、一人の患者にかける医療の質よりも、いかに多数の患者に対して、限りある医療を効率的・効果的に提供できるか、という観点が常に要求される、という点でも特殊である。
(注3)2015年10月調布市武者小路実篤記念館は開館30周年を迎えました。併せて実篤生誕130周年・調布市市制施行60周年でもあり、ご関係の方々にお集まりいただき式典が挙行されました。これまでご支援頂いた、市民の皆様・全国の実篤・白樺・新しき村ファンの皆さまに厚く御礼申し上げます。また3年後には「新しき村」が100周年となります。こちらにも皆さまご関心を寄せて頂ければ幸甚に存じます。