第8回
武者小路実篤 喉にささった小魚の骨
武者小路実篤の作品を愛する者にとって、「喉にささった魚の小骨」のようなことがあります。もともと、「人に殺されるのも、人を殺すことになるのも厭だ!」と言い続けてきた実篤が、第二次大戦の末期に『戦争を肯定』する発言をしたとされる問題です。
武者小路実篤は第二次大戦後、公職追放となり貴族院議員と学術会員の肩書をはずされます。戦時中の昭和17年に日本文学報国会劇文学部会長に祭り上げられ、大東亜文学大会開会式で講演するなど、所謂「大東亜共栄圏構想」を肯定していたと見做され、国民の戦意を煽ったとされたからです。ただ、晩年に実篤自身の後半生を小説風に記した「一人の男」の中で、この時期を振り返り『・・・実際的なことは全部、久保田万太郎君にまかせて安心していた・・・』とか『ロボット的な存在として集会によく呼び出された・・・』と言っています。
後ほど詳しく論じるとして、戦時中には政権や軍の方針に反対を表明することは殆どの国民がしなかったし、積極的に肯定しないまでも「欲しがりません、勝つまでは!」そして、出征する人を「万歳!」と言って送り出さざるを得なかったのでしょう。それは当時の文化人とて同じで、むしろ「目立つ文化人がゆえに」、戦争キャンペーンの場に引っ張り出される機会が多かったのでしょう。また、実篤はものを頼まれた時、あれこれ「言い訳を考えて断るより、やってしまった方が簡単」と、文章依頼や色紙へ画を描くことをしてしまう性格だったと、近くにいた人やご家族が語っています。実篤のこの性格が軍部や体制派に利用されたのかとも思えるのです。実篤の愛読者は「せめて黙っていてほしかった」のにと、忸怩たる思いの人が多いのです。あの川端康成はこの時期、発禁を恐れながらも「細雪」を描き続けていたのですから。
実篤が昭和15年ベルリンオリンピックの取材をかねて、欧米に美術を訪ねる旅をしました。当時ドイツ大使に兄・公共がいましたし、ドイツ語は少しだけわかりますが仏・伊・英などの言葉がまるで通じない実篤は、旅の殆どを現地の日本人知人に頼って過ごしたのですが、時には一人旅もありました。そんな中で、イタリアの列車で偶然乗り合わせたイタリア人老夫婦が、東洋人の実篤をみてあからさまな不快感を顕して、列車のキャビンを出て行ってしまったことがありました。日本も欧米に「追いついた」と自負していた、そんな一人だった実篤は非常に傷つけられたそうです。この事件での屈辱感が、実篤にして「欧米の植民地」となっている東南アジア諸国の人たちを、欧米の圧政から解放して「大東亜共栄圏」を作ろうというプロパガンダに載せられたのだという人がいます。一方で実篤自身も、中国で日本の「関東軍」が中国民衆に酷いことをしていることは知っていたはずだとも言っている人がいます。
藤田嗣治(レオナール・フジタ)という高名な洋画家がいました。戦前にパリ留学で頭角を現し帰国していた藤田は、高名な故に軍部の要請があり、100号200号という素晴らしい戦争画を書き上げました。太古の昔から絵描きにとって「戦争」や「勇敢な英雄」は絵画の素晴らしいテーマでした。英仏100年戦争時の「ジャンヌダルク」や、「フランス革命」、「ナポレオン」などを題材にした画は有名ですし、何人もの画家が神話の時代やギリシャ・ローマ時代から最近の戦争に至るまで、あらゆる角度からテーマに選んでいます。日本でも源平の戦いや関ヶ原の戦い、楠正成親子の画など枚挙にいとまがないほどですし、何人もの「高名」な画家が従軍画家として戦場に赴き戦意を高揚させる画を描きました。
ところが終戦後、日本の洋画団体の事務局長になった人(後に共産党に入党)が、藤田嗣治をエスケープ・ゴートにして、「軍部に協力した!」と非難したのです。戦時中に藤田をもてはやした人々や出版社の人たちも、従軍画家をした画家たちも皆口をぬぐって黙っていました。これに呆れた藤田は、渡仏の許可がおりるとすぐに日本を離れ、パリを中心に活躍し欧米諸国では暖かく迎え入れられました。その活躍を知った日本でも段々評判になったのですが、彼はそのご終生日本の土を踏みませんでした。
報道関係者はどうでしょうか?国営放送のNHKはもちろん、各新聞・雑誌とも戦意を高揚するための報道をしなければなりませんでした。また生徒たちに「教練」をさせ、国のために死ぬことはと尊いことだと教えた「公立」の国民学校の教師は、戦後職場を追われたでしょうか?特別に「戦犯」の条件に当てはまる事項に触れた人を除いて、戦時中の「一般国民の戦意を高揚する発言」がゆえに責任を追及されたりはしませんでした。
実篤が「新しき村」を提唱した頃から、「村」は共産主義的な「危険思想」ではないかと疑われ、「新しき村の理想」を説く実篤の講演会には常に特高警察の刑事が「過激な煽動的な発言」をしないか見張っていました。実篤や、「村」を支援する白樺派のメンバーや、講演会に集まり彼の「村の土地探し」に同行した中心メンバーには、自宅・仕事場・家族・親類縁者含めその生活全てを監視されていたといいます。
実篤は若いころトルストイに深く影響されました。そのキリスト教的な考えや、裕福な家系に育ったが故に贖罪的(?)に農地を農民に解放して、そこに理想郷を作ろうと試みた事など、トルストイの全てに一時期は傾倒していました。ただ、実篤はその後トルストイ全肯定を卒業し実篤独自の「人生論」「真理」を語るようになります。「新しき村」もトルストイの理想郷とはかなり違うものになったと、「コンミューン研究」の近代思想史の学者が言っていました。【(故人)日大・今 防人元教授】
白樺派創設メンバーで実篤の友人、小説家の有島武郎(タケオ)も北海道の有島農場(注1)を小作人に開放したことで知られています。有島は「実篤の『新しき村』は失敗するだろう」と言っていましたが、共産主義やアナーキズムに感化された有島自身が小作人に農場開放した結果は有島の意図に反したものとなり(注1)、実篤の「新しき村」が現在も存在し続けています。
ともあれ、共産主義者と疑われた実篤は、実は「主義者」は嫌いだと言っており、彼をシンパと思い込んだ主義者が実篤宅玄関に現れて「なにがしかの金品」を求めた時には「主義者は嫌いだ!!」と追い返したそうです。
さて「転向」という言葉があります。一般的には、戦前の共産主義弾圧に屈し、獄中などで主義者が共産主義を捨てたことをいいます。当時の新聞には「有名な主義者の×××が転向した」という記事が度々載りました。 そうした意味では、もともと主義者ではない実篤が「転向」したとはいえず、当時の一般人が巻き込まれていった流れに「うかうか」と乗せられてしまたったというところでした。では、人殺しが嫌な多くの民衆・大衆が「なぜ戦争肯定」に走り「鬼畜米英」「欲しがりません!勝つまでは」と叫ぶようになったのでしょうか?この点については、鶴見俊輔という社会派哲学者が中心になって戦後立ち上げた雑誌「思想の科学」に繰り返し重要なテーマとして取り上げられています。(注2) 彼自身が戦時中に従軍通訳としてインドネシアなどの戦地で軍属とならざるを得なかったこと、彼の父親が経済界にあって大政翼賛の重鎮であったことなどもふまえ、一般の国民がなぜ巻き込まれていったのかを論じています。詳しくは次回第9回に触れることとします。
一方武者小路実篤が中心になり、戦後に雑誌「心」を刊行し、数多くの年配の知識人たちに自由に平和を語らせています。(注3) 実篤自身、戦後すぐに「日本の未来」について語り始め、「真理先生」などの代表作を生んだことは前に述べた通りです。
やはり戦時中に何をしたか、どう発言したか等反省し、その後に何をし、どう行動したかも併せて問われるのかもしれません。特に平和を守る為に具体的に何をし続けているかが、今私たちに問われているのです。
安全保障関連法案が国会で審議され、憲法第9条がなし崩しに、形を変えようとしています。「集団的自衛権」が合憲という憲法学者は殆どいないし、例え条件付きにしろ「ホルムズ海峡での機雷掃海活動」等は違憲ではないという学者もごくわずかでしょう。とはいえ、選挙では自公が勝ち、国民の大半がこれを肯定しているかのように見えてしまう情勢です。あたかも、あの70数年前の時期に・・・いつのまにか「戦争は嫌で、自分や人が死ぬのも嫌だ。まして人を殺すなどとんでもないけど、戦争に反対するのは・・・怖いし・・・」という、あの時代と同じ状況がひしひしと近づいてきているのではないでしょうか。
かって、日米安保条約の改定の時、「声なき声の会デモ」がありました。極左でもなく、それまで政治に発言したり、行動したりすることのなかった一般の国民、それも家庭に引きこもっていた「おばさん」や「地方の農家や漁師のおじさん」「都会の片隅にいた若者」などが、数人で始まったデモの後ろに、一人二人とついて歩くようになり、長い行進になっていきました。「この声」に押され国会での議決ができずに、「自然承認」を待たざるを得なかった岸首相(当時)のニュース映像を思い出します。
その後、山口乙矢なる右翼の青年に、社会党の浅沼稲次郎党首が演壇上で刺殺され、だんだん文化人や著名人ですら、「怖い!」と積極的発言を控える様になったのも記憶に残っています。その後も鶴見俊輔などの仲間はひるまず雑誌「思想の科学」を発行し続けました。そして「声なき声の会」的運動が、やがて「ベトナムに平和を市民連合」(べ兵連)運動とつながりベトナム戦米兵の脱走を支援したりします。こうした全世界の世論が渦となってベトナム戦争を終結させました。
いま、私たちは「あの70数年前」に戻らない様に、何かをしなければならないでしょう。
PS. 次回第9回に、雑誌「思想の科学」の話題と、70年前の米軍沖縄上陸前後の戦いの際、日本軍32師団のわずかな兵員しか沖縄にいなかったことと、この手薄な日本軍がいかに多くの住民を巻き込んでいったか、そして日本国土で最大の犠牲者を出すことに繋がっていくのかについて、もう少し触れたいと思います。
(注1)有島農場解放:北海道後志のニセコ町(旧狩太(かりぶと)村)に白樺派の有島武郎(たけお)が所有していた農場の小作人への解放で有名。面積約450ヘクタール、小作約70戸であった。1897年(明治30)父・武(たけし)が「北海道国有未開地処分法」により100万坪(約330ヘクタール)の貸し下げを受け、一旦返却。1899年、再出願、約90万8000坪の貸し下げを受け、小作人を募集して開墾した。1908年(明治41)有島武郎に名義変更(第一農場)。さらに1914年(大正3)と1916年に約94町歩(約93ヘクタール)を買収(第二農場)した。有島はキリストの信仰からは離れたがその影響は抜け切れず、小作人の悲惨な生活を見て目を背けられなかった。また米欧で学んだ際イギリス亡命中のロシアの革命家クロポトキンと出会ったことから、その影響などによって共産主義・社会主義・アナーキズムに関心を持ち、早くから農場解放を考えていたといわれる。1922年7月、農場を小作人の共有という形で解放、旧小作人は「有限責任狩太共生農団信用利用組合」を組織して農場を運営した。1949年(昭和24)の農地解放により、農場は個人の私有地となった。現地には1924年(大正13)建立の「農場解放記念碑」、1978年建設の「有島記念館」がある。
(注1-2)農場開放顛末:有島自身が書いた農場を小作人に開放したことの顛末記
(注2)NHK 2014.7.12放送の 戦後史証言プロジェクト~日本人は何を目指したか~「知の巨人たち」第2回 鶴見俊輔とべ平連・雑誌「思想の科学」より
(注3)雑誌・同人誌「心」については、第3回 かぼちゃとじゃがいもと玉葱~實篤と同人誌「心」+“みんなちがっていい”~参照
調布市武者小路実篤記念館 と 「新しき村」 もご参照ください。