かぼちゃ会報45

第7回

武者小路実篤公園の ヒカリモ

  昨夜(2015.5.26)FNNのニュースで、調布市武者小路実篤公園の“ヒカリモ”が中継録画で放送されました。『都内で唯一“金色に輝く藻”』という表題で、「東京・調布市の公園で、茂みの中に金色に輝いているのは、「ヒカリモ」という藻の仲間」と紹介されました。
5月の連休前後から9月頃まで、ヒカリモが金色に輝くのが見られますが、全国的にも毎年この藻が光り、見られる所はごくわずかで、東京ではここだけです。(ヒカリモ自体は全国各地で見られる藻類ですが、毎年定期的に同じ場所で多量に発生する例はごくまれだそうです。)
ヒカリモ.jpg  非常に珍しいため毎年夏前のこの頃、何回かはTV数局や新聞数紙、インターネットやYouTubeなどで紹介されていて、公園を訪れる方も年々増えています。10年ほど前、実篤公園を訪れた小学生が偶然見つけてから、徐々に評判が評判を呼んできました。この“ヒカリモ”が最初に見つかったのは千葉県の富津市竹岡で、やはり薄暗い小さな水面に光っているそうです。この富津市の“ヒカリモ”は最初に見つかったので「国の天然記念物」の指定を得ています。

ヒカリモ.jpg 武者小路実篤が最晩年の20年を過ごした、仙川の家。奥様が亡くなる直前、入院先に安子夫人を見舞った実篤はショックを受け、翌日から言葉を失くして自らも床に臥してしまい、夫人が2月6日、先に往ってしまったことを家族から知らされないまま、奥様を追って二月後、実篤自身が90歳の生涯を閉じました。安子夫人の遺言に従い、仙川の家と、ハケ(国分寺崖線)の湧水を湛えた二つの池を含む庭が、調布市に寄付され「実篤公園」となりました。 四季おりおりに、樹木の緑や、花木や草本を水面に映す静かな公園は、近隣の調布市民や、全国から実篤記念館を訪れる方々にとって心休まる場所となっています。

  ここに移る前にいた、井の頭(いのかしら)の家も吉祥寺駅から井の頭の池の「七井橋(なないばし)」を渡って歩いて帰る所で、井の頭公園と玉川上水に挟まれた場所、水に“縁”のあるところでした。娘達の先を、着着流しの和服姿で下駄を履いた実篤さんが、せかせかと早足で橋を渡り歩く姿を、近隣の方が見かけたそうです。 終戦後、秋田の疎開先から帰った実篤夫婦の敷地に三人の娘がそれぞれ所帯をもち、井の頭の家には15人がかたまって暮らす、賑やかなものでした。

  若い頃の実篤は、文学史上“自然主義”に対抗した白樺派の“論客”として有名で、論壇の批評にかなりエクセントリックに反論したりしていました。そして「友情」その他の初期作品を世に問いました。宮崎・日向に「新しき村」を仲間と共に拓き、移り住んだ後、最初の妻と別れ、二番目の安子夫人との間に娘が生まれたころから、文学的にも家族をテーマにした作品が加わりました。子供可愛さから、不得意だった画にも挑戦し始めました。

  学習院時代からの親友・志賀直哉に、「年をとったら、水のある所に住みたい。」と実篤が言ったら、直哉に「もう十分年をとっているじゃないか」と言われたのが、古希を迎えるころでした。そこで、実篤夫婦はあちこち見て回り、70歳になる頃に仙川の場所が気に入って、昭和30年家を新築し夫婦二人の静かな生活が始まりました。実篤は子供の頃から「自宅の池にクジラと鯉を泳がせたい」と思っていたそうです。仙川ではクジラは無理でしたが、鯉に餌をやることを日課とし、親しい友人や孫たちが来ると、池に船を浮べたり、池の真ん中の小島にわたる橋から鯉に餌をやりながら、ここでの生活を自慢したそうです。
 仙川の家の門から玄関に至る下り坂には、ハケの崖の断層面が露出しており、家を建てている頃もこの崖や上の池の周りから古代の土器や生活具が出土したそうです。孫たちが土器などを見つけられても、実篤はひとかけらも発見できず悔しがったと、後に孫たちが語っています。この頃の実篤さんが、孫たち7人を引き連れ吉祥寺から仙川行のバスを下りて、大小さまざまの子供たちに囲まれて歩いていた姿が写真に残っています。
  仙川に移り住んでからも、替わりばんこに娘や孫たちがなにかと手伝いに訪れていましたが、午前中の文章を推敲している時間は、孫たちも近寄りづらかったようですが、午後色紙やキャンバスに描き始めると、孫たちの中には一緒に描く者もいたそうです。家族の中では、若い頃の喧嘩っ早い論客のイメージとも、貫禄あるあの写真の実篤さんとも違う面があったようです。

 かく云う私も、昨年古希を迎えましたが、昭和30年(1955)に仙川の家に越した頃の“実篤さん”の写真と、今の私を見比べてみて、貫禄が違うのは当然ながら、当時の“70歳”は年寄だなぁ!と思います。 

.実篤邸.jpg この家で70歳から間もなく91歳になろうとする昭和51年4月9日(1976)までの20年半を実篤は暮したわけです。この“終の棲家”となった仙川の家は、今公園の中にあり、土日休日の天気の良い日には、家の内部が一般公開されています。実篤さんが小説や詩・評論を書いたり、画や色紙を描いた書斎や応接間などが、当時のままに残され見ることが出来ます。「あぁ!ここで、『“かぼちゃ”や“玉葱”』の画と『勉強勉強・・・よく奇蹟を生む』などの“キャッチコピー”を書いていたのか!」と見学者が言っています。

  つい先日、書家の財前 謙さんという方が、実篤記念館に来館され、84歳当時の実篤が描いた「ツワブキ」の花の画に讃が添えてあるのをご覧になって、以下の記事を新聞に寄稿されました。
財前さんが言うには・・
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・・前略・・・・・・
「画廊や美術館では、まず見かけることのない、絵画の技法など全く意に介することもなく、ただ描いただけのツワブキの花。たが、時間をかけた対象への凝視と、他人の視線など忘れてひたすら描かれている点が、尊い。そして余白に入れられた賛が、またよかった。
  人みるもよし
  人みざるもよし
  我は咲く也
受付でこのツワブキの花の絵はがきを、3枚買って帰った。1枚は自分の机上用。残りの2枚は、さて誰に送ろうか。時勢におもねることなく、志に生きている人を探してみよう。もし2枚で足りなかったら、それはそれで幸せな事かもしれない。」
 (教育新聞 2015.4.9 記事)
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  財前さんの言う “絵画の技法など意に介せず” “他人の視線など忘れて” “ひたすら描かれている”という点等々は、実篤の戦後の代表作「真理先生」や「山谷ものシリーズ」登場する“馬鹿一”(画家・“石ころ書き”)の姿そのものです。

  さて、話を“ヒカリモ”に戻します。実篤さん生誕130年、亡くなってから約40年、記念館開館30年の今年ですが、最初に記しましたが、ここの“ヒカリモ”が発見されたのは10年前。そして新聞やTVでたびたび報道さ注目され、“ヒカリモ”を見るために遠くからお出でになる方々が増えたのはここ数年の事で、勿論、実篤さんや安子夫人は“ヒカリモ”などご存知なかったはずです。

ただ、“馬鹿一”の様にひたすら描き続け、
“桃栗三年柿八年 達磨は九年 俺は一生”といい
“君は君 我は我なり されど仲良き”とも言う
“この道より 我を生かす道なし この道を歩く”そして
“星と星とが讃嘆しあうように 山と山とが讃嘆しあうように
人間と人間が讃嘆しあいたいものだ”

こうした「コピー」を産み続けた実篤さんが天から見ていて、記念館30年で世間から「忘れ去られないように」との配慮から、上の池から菖蒲田に落とす水の出口の洞穴に人知れずそっと“ヒカリモ”を光らせて下さったのかもしれないと・・・・・
「ほぉ~ら、ついでに記念館にも立ち寄る人が増えただろう!」と、おっしゃっているのかも知れません。

(注1)【ヒカリモ(光藻) Chromulina rosanoffii (Wor.) Bütscheli】
池沼,井戸または洞窟内の水たまりなどに生育する,単細胞遊泳性の黄金色藻綱の1種。動物学では,原生動物門有色鞭毛虫綱黄緑鞭毛虫目に属する。おもに春から秋に,短い柄をもつ球形細胞となって水面に浮上して群生し,細胞内の杯状の葉緑体により,入射光を反射して水面を光らせる。遊泳細胞は卵形,長さ8~9μm,幅4~6μmで,斜め前方に生ずる1本の鞭毛で泳ぐ。葉緑体は1個で,大きく,眼点はない。電子顕微鏡の観察により,後方にのびるはずの鞭毛は退化して痕跡的となり,細胞外に突出していないことがわかった。千葉県富津市竹岡の群生地は、日本で初めてヒカリモが発見された場所であり、「黄金井戸」の名前で、国の天然記念物に指定されている。

(注2)LinkIconヒカリモ 初夏の実篤公園(ユーチューブ動画)
(注3) ※朝日ディジタルの「ヒカリモ」は現在見れません。
(注4)LinkIcon「黄金の「ヒカリモ」?調布・実篤公園」 (ゴールド ニュース)
(注5) もし機会があったら、次回は 武者小路実篤が
     * 若い頃は戦争を否定し、忌み嫌っていたこと
     * 戦時中に大東亜共栄圏構想を肯定したこと、
     * 終戦後 公職追放 となったこと
     * しかし これにめげず 雑誌「心」を主宰し
     *文化勲章を受章した
    こうした経緯につき 考察できたら と 考えています。

LinkIcon調布市武者小路実篤記念館 と LinkIcon「新しき村」 もご参照ください。