かぼちゃ会報40

第3回

実篤と同人誌「心」+“みんなちがっていい”

  今回は実篤から少しはずれたところから話し始めます。
「じぇじぇじぇ」昨年のNHK朝ドラ「あまちゃん」で使われ、2013年で一番有名になった言葉です。このドラマでは主人公‟あきちゃん”(10代)とその母・春子(あらフォー?あらフィフティー?)・祖母・夏(70代)それぞれの時代背景が語られ、それぞれの時代を知る各年代の人々にも共感・支持されました。ベースとなる現代(東日本大震災を挟む数年)の、〝AKB″や“キャリー・パミュパミュ”など今どきの若者の歌などにさほど関心が無かった層の人たちにも、現代の若者達の風俗やそれを取り巻く商業的環境を啓蒙させる役割を果たしたともいえます。さてこのドラマの中に薬師丸ひろ子が演じたアイドル主演の「潮騒のメモリー」という映画があり、その中で「この火を飛び越えて来い」というセリフがあります。このセリフが朝ドラの中でたびたび話題になっているのですが、勿論三島作品の「潮騒」にある印象的なシーンの言葉で、私自身も中学か高校生の頃読み、この言葉にわくわくしたのを思い出しました。また昨年暮れに、薬師丸がデビューした頃の角川映画・森村誠一作品のいくつかがNHKで放映されました。映画公開当時はさほど興味なく映画館に行かなかったのですが、「人間の証明」での‟母さん、僕のあの麦藁帽子、どうしたでしょうね?”(注1)という言葉や、「セーラー服と機関銃」で薬師丸が言った“かいかぁ~ん!”というセリフは当時流行り言葉になっていて、たびたび耳にしていましたし今でもときどき思い出します。

 たまたま孫娘がこの4月から小学校に入るので、家内から私の部屋を明け渡せ、勉強机とベッドを入れるのだと言われています。なかなか“じーじ”の私物整理が進まず家内はイライラしているのですが、作業の副産物で昔々読んだ「人間の証明」が出てきてあらためて少し拾い読みしてみました。それで気づいたことに、森村作品はその書かれた時代背景が非常に色濃く現わされ細かに描写されているということでした。進駐軍と日本人とのやりとり、かっての池袋周辺の街、ニューヨークの街の様子、NYのハーレム等のスラム街とそこに棲む人々、登場人物たちの生まれ育ちとその環境etc。今の若い人々が知らない事象だったりし、たまたま私自身が多少は見聞きしてきた事象に‟あぁそうだったなぁ!”と思え共感したものでした。そこには作者が生きてきた、または生きてきている社会に対する批判の目がはっきり著わされていました。

 武者小路実篤の代表作といわれる小説「友情」「愛と死」「幸福な家族」戯曲「その妹」「愛欲」などでは、主人公たちの会話で場面構成が展開する事がほとんどで、ときには主人公たちの手紙によることもあるのですが、恋愛・友情・嫉妬・仕事・貧困との闘い、等々の葛藤を語らせています。彼の描写には主人公たちのいる場所や、その時代の解説めいたものはごくわずかです。でもその時代を越えて今の私達にも共感するものがあるのが不思議です。
 実篤にも不遇な時代がありました。昭和初期に世情不安定になりやがて大不況がやってきました。その頃、かってはもてはやされた自然主義・人道主義といった文学より、小林多喜二の「蟹工船」などのプロレタリア文学全盛になります。この時代も実篤は世相に媚びず、同じトーンで書き続けていましたので、出版社から原稿の依頼が殆ど来なくなりました。自ら「失業の時代」といい、伝記物や童話などを書きわずかな稿料稼いでは「新しき村」(注5)に送っていました。

 終戦後、「日本は高い文化を持ちながらファッショへと傾くことを止められなかったのは、文化が大衆から離れたところにあり、影響力を持たなかったことが要因だという反省から、同じ過ちを繰り返さないため」と岩波が総合誌「世界」を刊行することとなり、日本の英知ともいうべき各界の著名人を集めました。その中心の1人に武者小路実篤がいました。ところが当時の「世界」の編集長が若い"社会主義“好みの論客を重用し、戦前戦中からの著名な文化人の作品を掲載する機会が次第に少なくなってしまいました。そこで実篤が発起人となり同人誌『心(注2)が発行され、毎号多くの著名人の随筆・創作・論文などが掲載されたので影響力は大きく、戦後の一時期の論壇をリードすることになりました。
この『心』に連載されたのが実篤の「真理先生」など「馬鹿一」ものといわれるシリーズです。

 実篤は、人間にとって変わらない“真理”や、‟人生論”を最晩年まで語り続けました。その後単行本や文庫本になったときにも、それらはベストセラーの仲間入りをしています。『心』発刊の辞にの中で実篤は「我等は同一の考を持つものではない。・・(中略)お互いの個性はちがう、生きている世界の範囲もちがう、ちがうから教わる点もあるわけだ。すべての人が同じ型になったり、同色になったりすることを自分達は喜ばない。」と記しています。

 また朝ドラ「あまちゃん」の話。母親の春子に言わせると、東京では「地味で暗くて向上心も協調性も個性も花もない、パッとしない子」の ‟あきちゃん”が北三陸に来て自然に恵まれた環境と世話焼きな大人たちに囲まれ変わろうとした。そして東京に憧れアイドルを目指していた“ ユイちゃん”と親友になった。 その二人に紆余曲折があったが、地元のアイドルとなり、周囲の大人たちを巻き込んで大震災後の復興の要になってゆくだろうと想像させてドラマは終わります。
大都会の子供たちには将来の夢が持てない子、ほかの子とうまくコミュニケーションがとれない子、そして一人で悶々としている子がかなりいます。また地方の子には華やかな東京の幻影に憧れる子が多く、東京に出たものの夢破れる子もいます。ともあれ人それぞれに目指すものがあっていいし、人ごとに違っていていい。石にしがみついてもやりとおす人、挫折した経験から得た本物の目標に向かう人がいてもいいのでしょう。
・・・人はそれぞれちがっていい・・・ちがっているから学ぶものがある・・・環境や自分を取り巻く状況が変われば目指すものも変わっていい・・・

 孫娘が、描いたばかりの絵をおにいちゃんが口にくわえ噛んでしまい、紙はくしゃくしゃになってしまいました。ひとしきり“お兄ちゃんなんて!”と怒っていたちぃちゃんが、 “♪みんなちがって、みんないい?”(注3) と保育園で覚えてきた歌を口ずさんでいます。私もなんとなく納得しました。

“きょうだい”(障害者を兄弟姉妹にもつ人)のある人が、「・・・中学あたりで、(障害ある)兄と自分の将来にとても不安を感じていた」つまり両親は先に亡くなってしまうし、その後自分が兄の面倒を見なければならないのか?自分の「仕事は?結婚は?将来は?」と。「でも妹として生まれたのだし、これは逃れられない運命? では、その日が来るまで精いっぱい自分の好きなことをしよう・・・と覚悟を決めた」しかしこの兄さんは、その後通所授産施設で働き始め、次にケアホームで生活することとなった。親元を離れて自立した兄に「覚悟していたぶん拍子抜けしてしまった」という。しかし「何もなければ兄妹の関係なんてそんなものだろう・・・何かあれば力になる、それくらいでいいではないか。・・・私はこれからも自分の好きなことをして生きていこう。」と書いていました。(注4) さて我が孫息子はどこまで成長するのか?自立できるまでになれるのか?我々がいなくなってから妹が、この方の様に思えることを願いつつ・・・・・今回の拙文の筆を置くことにします。

(2014.1. 記 ※もし機会と、私自身の余裕があれば、武者小路実篤について追記の文章(4)をと考えています。)

(注1) “母さん、ぼくのあの帽子…” 元は西條八十の詩「ぼくの帽子」後に「帽子」と改題。
(注2) 同人誌「心」 昭和23年7月創刊。 武者小路実篤が主唱。同人誌として創刊。創作、随筆、論文など時代を代表する作品や重要な研究論文を数多く送り出した。編集方針は「筆者を選んだ以上は書きたいものを自由にかかせる」。創刊時同人には実篤が最も信頼する友人である白樺同人から、志賀直哉、梅原龍三郎、他、画家・彫刻家・作曲家など芸術界から高村光太郎、信時潔、安田靫彦、小林古径、安井曽太郎、福田平八郎、文学者から永井荷風、広津和郎、谷崎潤一郎、吉井勇、斎藤茂吉、他、学会・教育会から哲学の安倍能成、天野貞祐、和辻哲郎、欧米文学研究者から小宮豊隆、辰野隆、他、経済学の小泉信三、高橋誠一郎。法学の田中耕太郎。言語学の新村出。民俗学の柳田國男。歴史学の津田左右吉。心理学の高橋穣。自然科学からも物理の仁科芳雄、中谷宇吉郎など42名の名があり、その内20人が文化勲章、5人が文化功労者に選ばれ、大学学長経験者が6人、文部大臣を務めた人が4人いる。その後の参加者に谷川徹三、横田喜三郎、高木八尺、大内兵衛、松本重治、鈴木大拙など多数。実篤死後(昭和51年)は串田孫一が編集・昭和56年終刊。

(注3) 金子みすず (1903-1929) の詩。
     「わたしと小鳥とすずと」
   わたしが両手をひろげても、
   お空はちっともとべないが、
   とべる小鳥はわたしのように、
   地面(じべた)をはやくは走れない。
   わたしがからだをゆすっても、
   きれいな音はでないけど、
   あの鳴るすずはわたしのように
   たくさんのうたは知らないよ。
   すずと、小鳥と、それからわたし、
   みんなちがって、みんないい。

(注4) 全国障害者問題研究会 月刊誌『みんなのねがいNo.556』2013年2月号
武者小路実篤について、ぜひ、LinkIcon調布市武者小路実篤記念館 LinkIcon「新しき村」ホームページもご参照ください。