第9回
実篤 喉にささった小魚の骨2
~一般民衆がなぜ戦争に反対できなかったのか?~
武者小路実篤の作品を愛する者にとっての「喉にささった魚の小骨」の続きです。
今年春、天皇皇后両陛下がパラオで戦死された方々の「慰霊の旅」をされました。沖縄はじめ各地の戦災地をまわられ、被災された方々の慰霊・慰問を続けていらした両陛下が、戦後70年の今年やっと、かねてから希望されていた南方の戦場で散った方々の慰霊の旅を成就されました。
朝日新聞に「歌壇・俳壇」という記事があり、一般の方々が投稿されたものを何人かの選者が何首か、何句かずつを選んで紙上で紹介・講評するものです。今年5月初めには両陛下のパラオ慰霊の旅を題とする歌・句が沢山寄せられました。
5月4日の朝日歌壇に 選者の一人・永田和宏さん選で
「武者小路も間違いをする それがまた彼の魅力となる気さえする」(奈良市)直木幸次郎
という歌が選ばれていました。選者は「両陛下がパラオ慰霊の旅に取材した歌が多かった。忘れられていた戦場と戦争の悲惨さを思い出させた意味は大きい。 直木(幸次郎)氏、惚れ込めば間違いすらも魅力だと、同感。」と講評に記されました。
直木幸次郎さんは、1919年生(今年96歳)の日本古代史の歴史学者・大阪市立大学の名誉教授です。武者小路実篤の始めた「新しき村」に傾注し、若い頃から「村」の村外会員として活動を支えてきました。彼自身1943年京都大学を卒業し、土浦海軍航空隊に入隊して特攻隊の訓練を受けました。2年余りの間、同期の桜が敵艦に突っ込めと命令されるのを、どんな思いで聞いたのでしょう。幸いにも彼自身は1945年終戦で復員できました。この当時復員・生還された方々は、戦友が死んだ中で生きて帰っていいのか?自身が戦地でしてきたことが正しかったのか?などなどで悩まれたと聞きました。
「村」の会員が集まる会合が東京・神田で毎週行われ、実篤も殆ど毎回参加していました。ある時その会合で、「先生(実篤)があの太平洋戦争での自分の言動は馬鹿だったと口にされたのを聞いた。先生が人生で一番後悔されていたことではなかったかと思う。」とある会員が記しています。(注1)
「転向」という言葉があり、一般的には、戦前の共産主義弾圧に屈し、獄中などで主義者が共産主義を捨てたことをいうことは前回述べました。当時の新聞には「有名な主義者の×××が転向した」という記事が度々載りました。一方国民・民衆の殆どの人が、人殺しが嫌で自分が人を殺すことはしたくないのに「なぜ戦争肯定」に走り「鬼畜米英」「欲しがりません!勝つまでは」「国体をまもれ!」と叫ぶようになったのでしょうか? そして「陛下のために闘う」、「天皇陛下万歳!」と言って銃弾の前に身をさらしたり、特攻機を敵艦に突っ込んだりする、若い兵士を称賛する様になったのでしょうか?
この点については、鶴見俊輔という社会派哲学者が中心になって戦後立ち上げた雑誌「思想の科学」に繰り返し重要なテーマとして取り上げられていることも前回触れましたが、これを少し詳述します。
戦後すぐの昭和21年「思想の科学」創刊号で、鶴見は「言葉のお守り的使用法について」という論文を載せました。 その中に…・
・一般人を戦争にかりたてた『お守り言葉』の例として、「鬼畜米英」「八紘一宇」「国体」などをあげ、『お守り言葉』とは“意味がよく分からずに言葉を使う習慣の一つ”と定義しました。
・軍隊・学校・公共団体における訓示や挨拶の中には、必ずこの『お守り言葉』が入っている。
・大量の「キャッチフレーズ」が国民に向かって投じられ、こうして「戦争に対する熱狂的献身」と「米英に対する狂信的憎悪」とがかもし出されて、異常な行動形態に国民を導いた。
・・・・と言い、これを「とく」(呪文をかけられた民衆を、その呪文から解き放つ)には、「普通の人にわかる普通の言葉で語りかけねばならない」と考え、普通の人々の哲学ということで「ひとびとの哲学」という連載を始めました。鶴見は「人民は、日露戦争以降ずっと黙っていた。中国に対する侵略も支持していた。・・・結局負けた。何を記憶していたんだろう。それが問題だ。アメリカに負けて、それはいったいどういう風に人民の記憶に残っているのか。それが知りたいし、それが歴史学の課題なんだ。」という。
*この鶴見の問いかけに、その後の日本人が応えているのか、この時期の思いを継承できているのか?今、あらためて考えて、ささやかでも行動しなければならないのではないかと思います。
昭和21年12月号の「思想の科学」に創刊からのメンバー武田清子という方が「人間観の所在」という一文のなかで、『民衆が戦争に反対できなかった理由を分析』しているが、自分の体験で・・・
「第二次大戦の深まる頃、私も民衆の一員として工場に入って働いた。」
「それは一番小さな存在でありつつ、時代の重荷を一番過酷に背負わされている民衆の在り方であった。」(女子挺身隊員として働いた武田は、28歳だった。)
「その当時『平和が大事』と友人に言ったところ、どこからか聞きつけて特高警察が彼女の留守に『持ち物検査』をして行った。だから、人前では『戦争反対』などとは誰も口にしなかった。」 ・・・ と言っています。
もっと悲惨な事例を挙げねばなりません。(注2)
第二次大戦中に日本で唯一大規模な「地上戦」があり、住民を巻き込んだ戦いとなった沖縄での話です。沖縄では20万人の方が亡くなった、実に全島民の4人に1人になります。特に米軍が4月1日に開始した本島北部への上陸作戦が数日で、ほぼ決着し南部首里城の沖縄・日本軍参謀本部に向かいます。同時に、米軍が4月半ばから攻撃した沖縄本島のすぐ隣・伊江島も猛攻撃を仕掛けました。この島には日本軍の大規模な飛行場があり、米軍機の「日本本土への空爆の基地」として利用するためです。その結果伊江島の全島民三千人の半数が死んだという悲惨な戦いとなりました、特に4月20日には死亡した島民の半数以上800人近くがたった一日に集中しています。「一億玉砕」という『お守り言葉』が脳裏に刷り込まれている島民には、「生き延びよう」という気すらなく、心安らかに死んでいった(と思いたい)と、かろうじて生き残った人が証言しています。
沖縄戦が開始される前、沖縄・日本軍の32軍の3師団のうち2師団は台湾防衛を命じられ、沖縄本島には兵員も火器も十分ではなかったようです。そこで32軍N0.2の長勇参謀長は
「全県民が兵隊になることだ!一人十殺の闘魂をもって敵を撃砕するのだ」
と言ったそうです。その結果、沖縄の日本軍の兵員の殆どは首里の参謀本部防衛に集められ、伊江島には日本軍の兵士はごくわずかしかいなくて、それも「防衛召集」といって、戦争末期に老人や14歳以上の子供まで、召集され訓練も受けずにろくに鉄砲もなく、一番危ない最前線に引き出された兵士が多かったといいます。実際伊江島での戦いでも沖縄で「がま」と呼ばれる洞窟に兵士も住民も逃げ込んだのですが、赤ん坊を連れて逃げてきた若い母親が洞窟の入口で“兵士”に停められ、「赤ん坊を黙らせろ!」と言われました。なかには仕方なく赤子の口を“おしめ”で塞ぎ・・・・結果的に窒息させた事例もあったと言います。この母親やその場に居合わせた近所の大人たち、そしてそれを言わざるを得なかった兵士も、・・・生き残れた何人かの人たちにとって、こうした光景が悪夢のようにたびたび思い出されたことでしょう。
沖縄の戦いはその後、本島南部の攻防に移りますが、それまでは「住民」の被害をなるべく少なくしようとしていた米軍が、「兵員と一般島民」が分けるのがむつかしい気付き、5月頃からは「がま」に逃げ込んだ人々に「投降を呼びかける」ことが少なくなり、100M先も焼き尽くす「火焔放射器」を備えた装甲車で、いきなり「がま」を焼き尽くしてしまうといった、無差別攻撃になりました。老人・女性でも兵士と行動し手りゅう弾を抱えて、また竹やりを持って、「斬り込んでくる」のですから。米兵も「先にやらなければ、自分が殺される!」と段々パニック状態になっていったそうです。当時の米軍の文書に日本軍の暗号指令が解読され「兵士は沖縄島民の服を着用して・・・米兵との闘いに臨め」。実際に軍服の上に島民の沖縄服を羽織った兵員の写真も添付されていました。島民が「国民服」の上に沖縄服を羽織っていたのかもしれませんが。
ベトナム戦争時に米兵が、南ベトナムの農民か、農民に紛れたベトコン兵士か、区別つかずに村民を皆殺しにした事件がたびたび報道され、国際世論から非難されました。いままた、「IS」(イスラミック・ステート)との闘いで、テロを仕掛ける側と、テロを抑え込もうとする側とに、同様に区別がつくかの悩みがあります。またISの支配地域に入ってしまった地域の住民は、ISに従わないかぎり生き残れませんし、年端もいかない男の子をIS兵士としての差し出さなければ、そこの住民が皆殺しの憂き目にあう事になっている様です。
先に触れた鶴見俊輔が「思想の科学」で言った「お守り言葉」を思い出してください。一般国民が「大東亜共栄圏」「鬼畜米英」「一億玉砕」といった「お守り言葉」を繰り返し聞かされるうちに、だれもこれに表立って異を唱えられなくなったことを・・・・・
いま、私たちは「あの70数年前」に戻らない様に、「声なき声の運動をする」のか、「声をあげて闘う」か、何かをしなければならないでしょう。今の私達には、ネットを通じて等、新たな方法もあるのですから。
(注1) 機関紙 「新しき村」 2015.7.1発行(第67巻第7号)の編集後記 久保義信氏 記。
(注2) NHK 2015.6.14放送 NHKスペシャル「沖縄戦 全記録」
調布市武者小路実篤記念館 と 「新しき村」 もご参照ください。