かぼちゃ会報38

第1回

  武者小路實篤の書画と言葉について

. 「生まれけり 死ぬる迄は 生くるなり」 實篤

これは武者小路實篤が、最初はたしか三十歳の頃に言った言葉です。その後何回も彼の自画像や書画に画賛として書き添えられています。

 「仲よき事は 美しき哉」
 「君は君 我は我也 されど仲よき」
 「共に咲く喜び」
 「天に星 地に花 人に愛」
 「この道より 我を生かす道なし この道を歩く」
 「勉強勉強勉強 勉強のみ よく奇蹟を生む かく思いつつ 我は勉強する也」

 この他にも沢山の有名な詩・画賛が 掛け軸や色紙、油絵などの形で遺されていて、私が好きなものも数え切れないほどあります。
というのも、私が生まれ育った家の床の間や違い棚には、こうした言葉が掛け軸だったり、色紙の額だったりして、いつでも数点ずつ掛けてあったのです。昭和26年には武者小路実篤に文化勲章が授与され、彼は小説家、文筆家、人生論・文芸論を説く人、絵画や書を描く人として有名でしたし、「新しき村」(注1)も全盛期で彼の主義に傾倒する人も多かったようです。私が育った昭和20~30年代には、多くの家に実篤の「かぼちゃとじゃがいも」「花瓶にいけた花」などの絵にこれらの画賛が添えられたものが1点や2点はありました。印刷された色紙や、風呂敷、手ぬぐい、時にはビール会社が配ったおまけの皿や、菓子屋の包装紙に描かれた模様として。当時住宅公団が「新時代のすまい」として売り出した公団住宅の宣伝ポスター内の写真には、和室の壁に「じゃがいもと玉葱」(だったかな?)の絵に何か画賛のあるものが掛けてあって「あっ!実篤さんだ」と言ったのを覚えています。

私の父は昭和の初期から実篤を敬愛していて、実篤の始めたLinkIcon「新しき村」(注1)活動に協賛し「村外会員」になっていました。村の毎週の定例会に参加し、実篤や村の兄弟らと文学や詩や絵画・彫刻その他の芸術談義にふけっていた様です。
 そんな訳で、私にはこれらの言葉が「好き嫌い」とかいうものではなく、身の回りにあって当然なものだったのです。ただ、受験勉強をし始めたとき、友人と意見を異にした時、人を愛しはじめた時、仕事を持ちそれに疲れ周囲の自然に目をむけた時・・・など、人生のいろいろなステージ毎に、これらの言葉が“それまでと違った”意味合いをもって心に沁みてきたものでした。

話変わりますが、ある文学者が「長生きをした作家は損だと思う」(注2)と言っています。
芥川龍之介、太宰治など若くして亡くなった作家は、「若き日のみじみずしい写真しか残されていない」といい、「そこにゆくと老人になるまで生きながらえてしまった作家は、どうしても晩年の写真が、全集などの巻頭を飾ることになってしまう」そうです。
  確かに、我が家にあった油絵の自画像も、父に伴われてお会いした実篤さんも、晩年の域に達していて、私の記憶でも「お年寄り」ということになります。最近、調布市LinkIcon武者小路実篤記念館(注3)をお手伝いするようになって、若き日の実篤の写真や手紙、日記にも多く接する様にはなって、はつらつとした実篤、熱く燃える実篤、愛に悩む実篤、いろんな実篤がいたことを知りました。(小説の「友情」「愛と死」「ある男」や「真理先生」「馬鹿一」の主人公など)
 私自身、孫と一緒の写真をみると、古希が近い歳相応の顔になっており、孫達やそのお友達には「お年寄り」という記憶が残るのは仕方が無いことだと思うようになりました。彼らが、自分達は写っていない、私の若かりし頃の写真に接する機会は稀でしょうから。

 最初に掲げた「生まれけり 死ぬる迄は 生くるなり」は、もともと好きな言葉です。ただ漠然と「何かを成し遂げるまでは・・」とか「いくつになっても“なすべき事”はまだまだ沢山ある」、「人は天命を全うすべき・・」と感じていたからでした。しかし、世間で“高齢者・老人”といわれる頃になって、突然孫二人の子育てをするようになり、この「・・死ぬる迄・・」の意味が変わってきました。まず、来年小学校入学の孫娘が学校を卒業し、できれば結婚するまで・・とか。特別支援学校の3年生の孫息子は、今は人の言葉を理解できず発語もなく全介助に近い状態ですが、成長は遅いものの少しずつ出来ることが増えてきています。私達夫婦がいつまで彼の介助をしてやれるのか、私達に何かあるまでに彼がどこまで出来るようになっていて、周囲の方々の温かいご支援で、そこそこやっていけるようになっているだろうか?など考えると、まだまだ「死ぬる」訳にはいかないと考える様になりました。むしろ、この子達のために「勉強勉強」し・・「奇蹟」を生みたいと思います。孫息子を通して知った障害ある方々にも、一人ひとり「障害」が異なり、世間から「障害」といわれるものも、彼らそれぞれの「個性」のようなものなのだ。そして皆それぞれにいいものを持っているのだと思えるようになってきました。「君は君・・・されど仲よき」のように周りの方々と理解しあい、また、人と人とが讃嘆しあえる社会(注4)になればと願っている自分がいます。

 障害ある兄をもつ妹の孫娘について、最近親しい友人から「気になる点がある」との指摘がありました。私達は彼女を愛情をもって育ててはいるつもりでも、「手のかかる兄の方に眼がいってしまっている事が多いのではないか?」とのお話です。聞き分けの良い子に育っている孫娘も来年は小学生。「きょうだい」の問題に彼女自身が徐々に直面するようになるのでしょう。
「・・・かく思いつつ 我は勉強するなり」と考る事とし、“実篤さんのもとのお考え”とは多分かけ離れた、自分勝手な思いでしたためた文章も、ここで筆を置きます。
最後にもう一つ好きな言葉を

 「星と星とが讃嘆しあうように
 山と山とが讃嘆しあうように
 人間と人間が讃嘆しあいたいものだ」 実篤  (注4)

(注1) 「新しき村」 HP
(注2) 三田誠広:エッセイ・一枚の写真「若き日の武者小路実篤」(新潮日本文学アルバム10巻末)
(注3) 「調布市武者小路実篤記念館」 HP 
(注4) 上記 「星と星とが・・・」の「讃嘆」 ※ 実(實)篤: 80歳未満の書画には實篤 80歳を超えてからは実篤と署名した。

ー 2013.8.11.記ー※もし機会と、私自身の余裕があれば、武者小路実篤について追記の文章をと考えています。