第50回
アフリカで感じる差別について
日本人としてアフリカに住んでいる私が実際に体験する “人種差別” は、結構複雑な角度からやってくることがあります。
「あなたどこの出身?ああ、日本。日本は素晴らしいわね。他のアジアの国はまだまだだけど」
「日本の文化は本当に世界に通用する素晴らしいもの」
「日本の車はみんないいけど、他のアジアの国はちょっと買おうと思わない」
これらがどうして “人種差別” なのだろうか、と思いますか。
日本を評価されるのは嬉しいことです。
私は1980年代からアフリカ大陸の様々な都市に暮らしています。その頃、日本の商社や政府関係者の方々がどれだけの努力を注いで、日本の製品をアフリカ人に受け入れてもらう努力をしていたのを実際に自分の目で見てきているのです。そういった意味では、日本の製品が高くされるのは大変嬉しいことです。
だからと言って、日本を評価するのに、他のアジアの国々と比べてその国々に対してひどい評価をする、というのはどうなんでしょうか。まして、その“評価”が風評に基づいていたり、客観的でない場合は、どうでしょう。
そして、問題は、そういったことを言う人たちは、その発言の中に含まれる、自分たちの傲慢さにはまったく気がついていない場合がほとんどだということです。
意識していようがいまいが、こういった発言には、「日本はがんばって、自分たちの基準に追いついている」、という自分たちを最上階に置く姿勢があるのではないか、と思うのです。
「日本はがんばったから自分たちの仲間に入れてやる、でも、他のアジアの国々はまだね」とでも解釈したら分かりやすいでしょうか。
これはアパルトヘイト下の南アフリカで、日本人が “名誉白人”という称号をもらっていた“不名誉” にも共通します。これはまさに、「自分たち白人が一番偉いけど、あなたたちは経済的に私たちに恩恵をもたらしてくれるから、私たちの次に偉い階級を与えましょう」という極めて上から目線の差別的政策でした。
さて、この写真をご覧ください。
南アフリカ・ダーバンで製造されている飲料水で、ローカルな芸術家のデザインをいくつも採用していて、アイディア自体は優れていると思います。
商品名に注意してください。
“It’s not made in China”
そのまま翻訳すると、
「これは中国で製造されていません」です。
私がこの商品を最初に目にしたのは、いつも友人が日本から来た時などに連れて行っていたチャリティショップでした。
初めてこの商品を見た時のショックは今でも記憶に鮮明です。
これが商品名として企画され、企画会議に通り、販売網に乗ってしまう。そして、こういった差別的な商品名を有する商品を仕入れ、店頭に並べても何の疑問もいただかない店がある、という衝撃です。しかもこの南アフリカで。
想像してみてください。
皆さんが外国を訪問して、ショッピングに行き、ある商品に、「これは日本で製造されたものではありません」という名前がついていたとしたら。
私が憤る理由はそれだけではありません。ある特定の地域や国をあげて揶揄する、という行為は許すべきではないと思うからです。
私が中国の政治姿勢を支持するとか、中国のことを弁護するとか、そういう話ではなくて、ある特定の地域や国名をあげて、それを皮肉る、と言う行為が人権意識から外れている、と思うからです。
また、中国が経済的に成功しているから、こういった批判めいたものを受けても仕方がないのでは、という意見も不思議です。
差別は、それがどんなに大きく強力な相手でも、「してはいけないこと」という意識が大切なのではないですか。中国の威力があるから中傷をしてもいい、というのはただのやっかみにしか聞こえません。
この会社のHPを見る限りでは、企画理由は「他の会社と違うことで商品を営業したかったから」としています。南アには溢れるほどの中国製の商品があるから、それを否定することで目立ちたかった、というのです。
また、これをユーモアと受け取って欲しい、ということも言われました。
この商品を販売しているチャリティのお店からは、以下の理由を提示されました。
「この会社は良心的な企業で、南ア人アーティストたちの育成に貢献している」
「私たちは芸術を支援する団体でもあり、表現の自由を尊重したい」
また、このチャリティのお店のFacebookでこの商品のことを批判するコメントを書いたところ、たくさんの南ア人からのコメントに驚かされました。
「ユーモアのセンスがない」
「そんなこと言うなら、中国はもっとひどいことをしているじゃない。私たちのサイを殺しているのも中国人だし」
こういうコメントをもらって一体どこからどうやって反論していったらいいのだろう、と頭を抱えてしまいました。
私がこの記事を書く理由は、“差別”というのはどんな小さいことでも許したらいけない、と思うからです。小さなことだから、ユーモアなんだから、と許していると、私たちは差別していることに慣れてしまい、さらに大きな差別を許す社会に自分たちを先導してしまうからです。
これは、ユーモアではありません。中国は現存する一つの国なのです。その国名をあげて揶揄する、ということは、中国出身の10億人の人々の感情を犠牲にしている可能性がある、ということです。
もちろん、中国の方の中にはそう思わない方もいらっしゃるでしょう。このブランドを容認している中国人の方もいるようです。でも、10億人の中国人の中の一握りの方でも、これを不快に思うのであれば、私たちは耳を傾けないといけないと思うのです。
また、会社として、いくら他でいいことをしていたとしても、例え差別を意図していなかったとしても、「差別だ」という指摘があってもそれを改めないのは、責任ある企業のする行動でしょうか。
表現の自由を脅かす、という危惧については、逆に、表現の自由とは何を言ってもいい、ということではありません。
そして、中国だから、「サイなどの動物を乱獲しているから、このくらい言われても仕方ない」という客観性のない理由で中国を攻撃でするのも不可解です。この問題は、中国が他で何をしているかが問題ではありません。これを英語でWhataboutism(吉村訳:こっちはどうなんだ説)といい、ある議論に別の要素を持ってきて、根本の議論を崩してしまう論法を指します。
私の中国人の友人にこれに関しての感想を寄せてもらいました。
「悲しい」
「差別がある」
「でも、こういうことは中国出身というだけでよく起こる理不尽なことのひとつに過ぎない」
最後に長めですが、もう一人の中国人の友人のコメントを紹介しましょう。
「昔は、吊り上がった目、というのはジョークだった。テレビにでてくる中国人はフレディ・マーキュリーの二倍はありそうな出っ歯がトレードマークだった。これだってジョーク?世界をもうちょっとよく教育したいなぁ。もちろん完璧な世の中はない。でも、一歩づつ一歩づつ。10億の人間を傷つけるジョークって、全然おもしろくないってこの会社に言ってやってくれ。それよりも少ない人間を傷つけるジョークはもっと最悪だって」
これらの中国人の意見を聞いたあとでも、”It’s not made in China” を「差別ではない」と思いますか。
差別はどこからか忍び寄ります。
自分が知らずに差別をしていることもあります。
が、これだけ様々なメディアを通して、会ったこともない人の意見を聞くことができるようになった今、「それは差別だ」という指摘を受けたとしたら、これまでの自分の行動を振り返ってみることが大切なのではないでしょうか。
私は自分の意志で、アフリカに住む日本人です。
そして、私は自分をアフリカに住むアジア人、と考える方がしっくりと来るのです。
アフリカに住んで、アフリカを応援したいからこそ、アジア人に向けたこういった“差別”にきちんと声をあげて抗議していくことも私の役割だと思っています。