第48回
翔子の結婚式 Part 2
前回の私のスピーチに続き、結婚式の詳細をご報告します。
+++++++++++++++++
娘・翔子が生涯を共にしたいパートナー・アディアに巡り合い、結婚することになった時、結婚式は彼女の実家があるダーバンで、ということになりました。
それは、ダーバンは、彼ら二人の住むケープタウン、アディアのお母さんやお兄さんたちが住むヨハネスブルグのほぼ中間の位置にあるからです。飛行機で、ケープタウンからは2時間、ヨハネスブルグからは1時間です。
翔子とアディアは、自分たちの結婚式は、自分たちで出来る限り手作りのものにしたい、と言いました。つまり、どこかの結婚式場に丸投げではなく、設定も、お料理も、お酒類も、式次第も、当日演奏してくれるバンドの手配も、野外なので雨に備えてのテントの手配、とにかくすべて、自分たちで計画し実行したい、ということでした。
「ええ?大変じゃないの?」
という私に、翔子はこう言いました。
「お母さん、私はケープタウン大学で、4年間も舞台芸術を勉強したんだよ。自分の結婚式をプロデュースしないわけがないでしょう」
……ということで、翔子とアディアの結婚式は、モットーとして、以下の3点1排他的ではない、2環境に配慮する、3手作り、が重要視されたかなりユニークなものとなりました。
式場は、私の友人の広いお庭ですることに。かつて、450人を招いてガーデンパーティをしたことがある、というお庭です。
お料理に関しては、個人的な好き嫌いはあっても、食事に文化的な制限のあまりない日本人はこういう時、便利です。一応、何でも食べられる、ということ。
でも、アディアの家族は、お式のためにイスラエルからも親戚がいらっしゃるので、なるべく敬虔なユダヤ教徒でも、食べられる食事を選びました。しかし、お式が土曜日だったので、本当に熱心なユダヤ教徒は、この日は食べられないものも多いのだとか。
結局、お料理は二人の大好きなギリシャ料理をケータリングしてもらうことに。そして、招待客の中にはたくさんのベジタリアンやビーガン(乳製品も食べない純粋菜食者)もいるので、ベジタリアン料理もかなりの人数を注文しました。
私は、我が家の定番メニュ―である巻き寿司を作って、皆さんに食べていただきたかったのですが、これは、翔子のみならず、優しいアディアからも絶対反対、と言い渡されてしまいました。当日、私は ”花嫁の母“なのだから、朝から200本も海苔巻きを作るなん気狂い沙汰だ、と説得され、巻き寿司はメニューから撤退させました。確かに、当日、200本の巻き寿司は無理だったかもしれません。
さて、お式に来ていただく招待客は大変なことになりました。それこそ、世界各国からのお客様です。
そもそも、彼らの結婚式のモットーのひとつは、排他的にしない、ということ。つまり、二人の人生に関わって、二人を助けてくれた人、幸せにしてくれた人、仲間たちはすべての人に声をかけたい、というのです。そして、その中にはたくさんの子どもたちも含まれていました。
その後、経費があまりにもかかることが分かり、その数は一応、制限されていきました。でも、招待状を送ったのは約350通。つまり、その350通にはご家族で、ご夫妻でいらっしゃることも考えると、何名が実際に結婚式に来ていただけるのか、は未知数でした。
結果的に食事を注文したのは240名分でした。
さあ、そして、この爆弾発言。
「私、結婚式に日本の打掛を着たい」
さらに、
「私のブライズメイドにも振袖を着て欲しい」
正直言って、私は20歳のころは米国に留学中で、それこそ、成人式にも参加していません。着物の知識はゼロに近く、母の残した数多くの着物もどうしたらいいものか、何の具体的な案さえない状態です。
着物が大好きだった私の母が生きていれば、張り切って、気付けなり、道具を揃えたり、ということもしてくれたでしょう。が、その頼みの母ももうあちら側に旅立って10年近くの時間が経とうとしていました。
ただ、南アに移住した私たち夫婦に連れられて、7歳で日本を離れた娘に、「結婚式で打掛が着たい」と言われてしまったら、う~ん、ここは母として、一肌脱がねばいけないかな、と思ったのです。
ただ、着物を実際に見たことも、まして着たこともない南アフリカ人のお嬢さん(一人坊ちゃんも含む)たちです。もちろん、新品などは買えないとしても、どこから着物を誂えようか、と悩みました。母が残してくれた正絹の訪問着などは気軽に扱えないし。
そこで、日本の友人に相談したら、なんと、こんな答えが返ってきたのです。
「私の友人の中で、振袖を処分にするのに困っている人が何人もいる。結婚式でそういう風に使ってもらえるなら、寄付してくれると思う」
そこで、いろいろな方法を使って、あくまでも寄付してくださる人を探しました。お借りして着せる、というのは同じような状態にしてお返ししなくてはいけないので、初めて着物を着る南アの若い人に、絶対に汚すな、というのは無理だと思ったからです。
という訳で、集まりました。私の友人たちの年齢ですから、かれこれ40年前に誂えてもらった、それはそれは見事な振袖の数々。見ているだけで、その晴れの日々を想像できるようなものでした。
翔子の打掛は、名古屋の大津の古着屋さんのお店でこれまた豪華な本刺繍の正絹のものが入手できました。きっとこれを新品で誂えたら100倍の値段はするのではないか、と思えるほど立派なものでした。
しかし、誰が花嫁含め総勢9名の着付けをするのか、という問題が残りました。
が、これも何とかなるものですね。友人で、南アの結婚式に来てくれる、と言ってくれた翔子のことを幼い頃から知る何人かの友人が着付けもしてくれたのです。中心的に動いてくださったのは、なんと呉服屋に嫁いでいた友人です。彼女には本当にお世話になりました。
しかし!着物を着せる、ということがこんなに大変だったとは。まず、小道具というか、着物の他に、当然ですが、帯が必要、帯どめが必要、襦袢やら、髪飾りやら、付属品の多さに改めて仰天。こういった小物をほぼすべての登場人物に手作りしてくれた名古屋の友人にも感謝、感謝です。
そして、さらに大問題となったのが、草履でした。そもそも、翔子を含め、全員が25センチを超える足の大きさ。
これは、翔子こそ、大きな草履をインターネットで探して購入しましたが、後の皆さんには編み上げのブーツで大正時代のお嬢さんたちのよう形をしてもらうことで一件落着に。
写真にもあるように、ここ南アフリカ・ダーバンで、これだけの打掛、振袖が一堂に揃ったのは、後にも先にもこの結婚式だけでしょう。
悲しいかな、花嫁もブライズメイドも、打掛、振袖共に着ていられたのはせいぜい2時間でした。打掛、振袖、その重さ、動きにくさから、あれよあれよという間に、他に用意していたパーティ服に着替えていました。
「これは、結婚式じゃない、イベントだ」
と参加してくれた南ア人の友人の言葉がすべてを語ってくれました。
確かに、お昼に始まり、終わったのは深夜近くでした。ブライズメイドの友人たちは結婚式1週間前から我が家に泊まり込みで結婚式の準備をしてくれましたし、結婚式前夜のリハーサルディナーと呼ばれる食事会も、総勢60名強が我が家で美味しいダーバンのカレーを楽しみました。
日本からの親戚、友人たちも我が家や近所の友人宅に分散してもらい、なんとか7日間に渡るイベントを遂行させてもらいました。7日以上、朝昼晩に20名以上の賄いもその材料調達も半端な量ではありませんでした。
でも、そんな苦労ももう過ぎてしまえば楽しいことしか思い出せません。
集合してくれた、世界各国からの家族、親戚、友人たち。性別に捕らわれることなく、思い思いの姿で翔子とアディアの二人の人生を祝ってくれました。多くの家族・友人に恵まれた私たちは本当に幸せな家族です。
花嫁の母は、夫・稔が亡くなってから、ずしんと重かった肩の荷の一つをちょっと軽くしてもらった気持ちです。
翔子、アディア、二人で幸せな家庭を築いてね。