なめとこ山 会報57号



第53回

縄文人に思いを馳せて

皆さんこんにちは。この夏は本当に暑くて、たいへんでしたね。いかがお過ごしでしたか。この後もまだ厳しい暑さの日が続くかもしれません。どうぞお気を付けてお過ごしください。さて、今回の「なめとこ山通信」は、暑かった夏とはあまり関係なく、「縄文時代」についてのお話です。子どもが、夏の自由研究は何にしようかなと考えていた時に、私はたまたま『縄文の思想』(瀬川拓郎 講談社現代文庫)という本を読んでいて、そうだ、自分の自由研究はこれにしよう!とひらめいたからでした。

 縄文時代について、まずは簡単におさらいをしておきましょう。(読んだ本からの、受け売りですが。)
 縄文時代は、今から約1万5000年前から、2400年前(紀元前4世紀頃)まで続いたと考えられています。1万年以上です!ちなみに、江戸時代は265年間、平安時代は約400年間ですから、相当な長さです。現代の社会は、この後、1万年も続くでしょうか・・・。
 家族に、「縄文時代と聞いてまず思いつくのは何?」と聞いたところ、「はい、埴輪!」と答えが返ってきました。ブブー。縄文時代に作られたのは「土偶」です。埴輪はその後の古墳時代に作られたもので、埴輪と土偶とは、別ものです。
 紀元前4世紀頃になって、大陸から渡ってきた民族が水稲農耕をもたらして、以降を弥生時代とする考え方が以前はあったようですが、縄文晩期にも稲作は行われていたことや、弥生時代になっても東北地方では縄文文化が続いていて、それを続縄文時代と呼ぶ研究者が出てきていることや、そもそも、縄文時代から弥生時代になって、人種や民族が入れ替わったわけではないこと(1万年以上も列島に住んでいた縄文人は、弥生人の社会と関わりを持ちつつ生き続け、共生していくことになって今の日本人がいるということ。)等がわかってきたそうです。なので、縄文時代の終わりはいつ、ということは明確にはできないというのが、今のところの正しい見解のようです。
 古くから日本にいる縄文人と、わりと新しく日本に渡ってきた弥生人と、お互い一緒に暮らしていく中で違いも曖昧になっていきますが、縄文系と弥生系とで、現代でもその違いは残っているそうです。・・・たしかに、なんとなく、あの人は縄文系?と感じることが、無いわけでもありません。(失礼。)見分け方の一つに、耳垢が湿っている人は縄文系、乾いている人は弥生系と言われることがあります。(なんだか胡散臭い話ですが。)父が東北の私は湿っぽい耳垢で、九州出身の妻は乾いている耳垢ということで、私は縄文系、妻は弥生系なのかなと思ったりします。ちなみに、縄文時代に生きた犬を「縄文犬」、弥生時代に生きた犬を「弥生犬」と呼んで区別します。出土した骨から、ほんの僅かな違いのあることがわかるのだそうです。


本で縄文時代の知識を再確認した私は、実際に遺跡や土器を見たくなりました。そして幸い、身近に、それらを見られる場所がありました。それは、多摩市にある、東京都埋蔵文化財センター・遺跡庭園「縄文の村」です。多摩センター駅から徒歩5分くらいのところにあり、無料で見学できます。夏休み中の先日、私も行って来ました。センターでは、当日に火おこし体験をしたいと申し出れば、学芸員の方が出てきてくれて、丁寧にやり方を教えてくれます。そして私でも、舞いぎり式の火おこし器具で、上手く火をつけることが出来ました。以前、この「なめとこ山通信」の中で、学校でキリモミ式火おこしに挑戦した話を書きました。結局あの時は上手く着火できずに、「火おこしってやっぱり難しいんだねという授業になりました」というレポートになってしまいました。でも今回は、本当にわりと楽に火をつけることが出来たので、学芸員さんに、何が違うのか聞いてみました。お話によれば、センターで独自に作っているこの舞いぎり式の火おこし器具が、上手く工夫されて出来ているのだということでした。そういうことか・・・でも確かに、年季の入っていそうなこの器具があれば、私でもいつでもどこでも、火がおこせる気になりました。そしてその証明として、「舞いぎり式 火おこしマイスター 認定証」を発行していただきました!

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 センターに隣接している、遺跡庭園「縄文の村」では、発掘調査後に復元された竪穴住居を見学できます。園内には三つの住居が復元されていますが、防虫・防腐のために日替わりで、内部で火焚きが行われていて、縄文人の暮らしに思いを馳せることができました。いえ、それほどロマンチックなものではなく、暑い日でしたので、薄暗くあまり広くもない住居内は、焚き火によっていっそう暑苦しく、また煙たくもあって、ただただ大変そうだなぁと感じたのが正直なところでした。
 さらに埋蔵文化財センター内では、たくさんの縄文土器を見ることができます。それらは、多摩ニュータウン遺跡から出土した土器ということです。また、多摩地区の遺跡から出土した土偶の展示もありました。大きさは、小さい物ですが、顔の表情や乳房が表現されているのがわかるものでした。縄文中期後半のものが多いということですから、4000年くらい前のものでしょうか。4000年前に生きた人が、どのような思いで何のためにこのような土偶を作ったのでしょうか。もっと、色んな土偶を見てみたくなってきました。
 というわけで次は、この夏、上野の東京国立博物館で行われている、特別展「縄文ー1万年の美の鼓動」に行って来たのでした。

5.jpg 上野の「縄文」展は、夏休みということで入場が制限されるほど混雑する日もあったようですが、私は、夜の9時まで開館している金曜日に、夕方から行って来ました。私が見たかったのは、もちろん、五つの国宝土偶でした。以前、「国宝展」という展示会でも、この国宝土偶たちを見ることができましたが、その時は、順次公開ということで、五体を一度に見ることはできませんでした。今回の「縄文」展では、時代も発掘場所も、そして何より姿形も全く違う五体の土偶が、同じ一つ所に集まっていることが、何とも不思議な感じでした。それらは、「縄文の女神」「中空土偶」「縄文のビーナス」「仮面の女神」「合掌土偶」と名付けられていますが、皆さんは映像が浮かんできますか。私の推しメンは、「仮面の女神」です。逆三角形の仮面を付けたような顔、身体のくるくる模様、ロボットのような丸く太い足(機動戦士ガンダムに出てくるザクを彷彿とします)。明らかに、芸術的な創意工夫を凝らしてデザインしたとしか考えられません。ところで明らかに工夫を凝らしてデザインされた土偶といえば、こちらは国宝にはなっていませんが、「遮光器土偶」というのも、今回実際に見ることができました。よく教科書の写真で見た、あの大きなサングラスをかけているような、ずんぐりむっくりの土偶です。この土偶も、これは人間をデフォルメしたのか、宇宙人をかたどったのか、などと盛んに言われるほど、秀逸なフォルムです。本当に、縄文人の芸術的センスには驚かされます。
4.jpg 芸術的センスで言えば、縄文時代のもう一つの国宝、火焰型土器もまた今回初めて間近に見ました(縄文時代には、五つの土偶と一つの土器の、六つの国宝があります。縄文時代から六つしか国宝が選ばれていないことにも驚きです。)が、そのデザインの見事さに驚嘆してきました。私は初め、火焰型の名から、ただメラメラとした感じを形にした変わった土器だと思っていました。(火焰をデザインするのも凄いことですが。)
6.jpgしかし実物を見ると、土器の縁に飾られているデザインは、見事に計算されて同じ向きに並べられた四つの「何か」でした。(私には、鳥のように思えました。)皆さんには、この不思議なデザインが何に見えますか?
 「縄文」展を見た中で、私が感動したもう一つに、子どもの手形足形の土版があります。本当に、小さな土版に、子どもの手形、もしくは足形が押されて残っているものです。現代でも私たちは、子どもの成長を記念して、子どもの手形を残したりします。縄文時代でも今と同じように子どもの手形を残していたことに、子を思う親の愛情は昔も今も変わらないのだなぁと、温かい気持ちになりました。ただこの手形足形は、早くして亡くなった子の形見として型取りして作られたのでは、とも考えられているそうです。縄文時代は、生まれてきた子の中で15歳まで生きられるのはその約半数だそうで、そう考えるといっそう、子を思う親の気持ちが感じられてくるのでした。

 これまで縄文時代の出土品等の物質的な面を語りました。一方で、縄文時代の精神的な思想が、今を生きる私たちのどこかに、脈々と流れていると言えるかもしれません。『縄文の思想』の中で、瀬川氏はこう言います。

 縄文的な世界は、自由・自治・平和・平等に彩られた世界でした。
 ただしそれは、動物の自然状態から長い時間をかけて生み出されてきた、他者とともに生きるための知ではあっても、近代の理念としての自由・自治・平和・平等とは異なる、土俗世界の思想であったといえそうです。
7.jpg しかし、実態としての近代の自由・自治・平和・平等と縄文のそれとのあいだに、一体どれほどのちがいがあるのでしょうか。私たち自身、国家という閉じた系のなかで欲望や暴力にとりかこまれた存在にほかなりません。

 国家という息苦しい閉じた系の中で私たちは生きているとするならば、そんな時代にこそ、神の前の平等、自治と自由、生の肯定、等がキーワードだとされている縄文時代に思いを馳せ、縄文人風に伸び伸びと逞しく生きてみるのもありなのではないでしょうか、と、そんなことを思った暑い夏なのでした。