小野 晴巳(地球冒険学校準備会顧問)
前回は、原発について私たちはどのように知識を得ていたかについて考えてみました。簡単に言えば、新聞・テレビで知り安心して電気を使用していたのが、福島原発事故前の日本人の姿でした。その知識の源泉が前回の記事で分かるように、圧倒的な原発推進派による宣伝・プロパガンダでした。今回はその源である電力会社の歴史について書いてみたいと思います。
その前に(その2)
1.電力会社の歴史-いかにして9ブロック体制になったのか?
明治時代から終戦までの電力会社の歴史をたどると、簡単にいえば「民vs官」の対立軸で説明できそうです。日本で最初の電力会社は、東京電力会社の前身の東京電燈で、明治16(1883)年です。エジソンが実用化に成功したのが1879年ですから、いかに早く取り入れられたかがわかります。会社も電気量も小さく小規模でした。誰でも簡単に会社を設立できたので、明治40年頃には全国で100社以上、昭和7年頃には800社以上が乱立しました。当然、電力会社同士の競争は激しく、「弱肉強食の戦国時代」といわれています。
しかし、一方で大正時代から「電力国有化論」が検討されていました。そして電力国有化が実現するのは、昭和10年までの世界情勢(ウォール街の株暴落、不況等)や国内のテロ事件、汚職事件、昭和恐慌などと、昭和10年以降の日本の戦争の歴史と深い関わりがあります。
革新派官僚(腐敗した社会を改革し、統制経済で当時の日本を改革したい野望の官僚達)と戦争を推進する軍部の働きでした。電力国有化のために参考にしたのが、昭和10(1935)年に成立したナチスの「動力経済法」でした。そして出来上がったのが昭和13(1938)年の「国家総動員法」とともに「電力国家管理法」です。それによって電力事業は完全に国家統制になりました。
しかし、電力国有化に関して、官か?民か?で電力会社と官僚・軍部の激しい戦いがあり、簡単に国管理された訳ではありませんでした。新聞論調も賛成反対で激論が交わされていたことや、国有化反対論を強硬姿勢で戦った松永安左エ門の名前などぜひ知ってほしいと思います。
2.戦時中から現在まで
電力会社は1939年に全国の発電と送電を行う「日本発電送電会社」が創設されましたが、事業計画、役員人事、電気料金まで政府に握られた国策会社でした。配電は民間電力会社が行っていましたが、1941年の「配電統制令」によって統合され、全国を9ブロックに分割し、これは現在と同じ9電力地域割りになります。
終戦まで続いたこの体制も占領下にGHQの命令で解体を迫られます。そこで、日本の電力体制をどのように構築するか激しい論争が繰り広げられます。参考までに、将来の電力事業再編成を占うため、当時の日本人の考え方を列挙します。
・日本で1社の大電力会社をつくる全国一つの民間会社案(官僚による国策経営)。
・それを国鉄のように国有化する案(組合等の案)
・地方公共団体が運営する公営案(地方自治体、各団体等)
・全国を9分割し、その地域の発電、送電、配電の全てを1社で担当する案(松永安左エ門案)
等です。
これらの案の中で、一番支持のないのは最後のブロック案で、政党、組合、マスコミ、経済界等はこのブロック案を批判しました。しかしながら、現在の電力体制を見ればわかるように、この9ブロック体制が採用されて、以後の日本経済を左右するようになります。この経緯については省略しますが、この体制を強力に進めたのが「電力の鬼」と言われた松永安左エ門です。
なぜ一番国民の間で抵抗のあった松永案が採用されたかは、占領下のGHQの存在と松永自身の電力事業に対する強い信念があったとされています。松永は「国家管理への反骨心、官僚達への不信感、および自由主義経済の信奉と電力への志」から、電力会社を私利私欲で経営することに強く反対したと言われています。この「信念」がいかされていれば、現在の電力会社の利益追求型、国民不在の経営にはならなかったと評価する人もいます。ただ見方によっては、功罪半ばの人物と評価する人もいます。
この9ブロックの「地域独占体制。発送電一貫体制」は国家管理体制の戦時中の国策会社の短所を補い、終戦後の混乱や高度成長期を支えた体制として評価すべき面もあったと言えます。しかし、現在の電力会社の存在はプラスよりマイナスの方が目立つようになります。
福島原発事故後の対応から国家や国民のための電力であることを忘れて、企業利益の追求、経済界のボス化、社会奉仕感の欠如、エリート意識、電気料金設定の仕組み等が明らかとなり、独占企業の弊害が指摘されました。
さて、話もなかなか進まないのですが、次は原子力政策の歴史について簡単に触れたいと思います。
3.原発を動かしているのはどこだ?
福島原発は東京電力が運営営業しているように、原発は各9電力会社が設置者となって発電しています。ところが、運転停止した茨城県の東海原発と福井県の敦賀原発は、日本原子力発電会社、青森県の大間原発は電源開発公社、「もんじゅ」は日本原子力開発機構、青森県六ケ所村再処理施設は日本原燃会社が主体となっています。原発は電力会社がすべて運営していると信じている人にとって、複雑すぎて覚えられません。このように名称が複雑なのは、原子力政策の迷走と密接に関係します。例えば、原子燃料公社(~1967)→動力炉・核燃料開発事業団(1967~1998)→核燃料サイクル開発機構(1998~2005)とたびたび名称を変えています。このように名前を変え、品を変えなければならないように、原子力発電は難しく複雑な構造を持つ政策なのです。
私が興味をもって原子力政策の歴史を調べていると、このように官・民入り乱れての原子力発電体制は戦前・戦後の電力事業の主権争い「官と民、政治家の争い、学界の主流派争い、電力会社の思惑」など複雑な構図がすべての出発点のようです。
次に原子力政策の歴史を振り返ると、その辺の事情が少し理解できるかもしれません。
(1)原子力政策の歴史
1953(昭和28)年 アイゼンハワー米大統領の国連演説(原子力平和利用の推進演説)
1954(昭和29)年 日本初の原子力予算の成立
1955(昭和30)年 日米原子力協定調印。原子力3法成立(原子力基本法・原子力委員会設置法・政府内に原子力設置法)
1956(昭和31)年 原研(現在の日本原子力開発機構)・原子燃料公社(動燃)設立
ここまでの当時のエネルギー政策に関する国民の意識は「エネルギー需要はますます増発・研究し利用することが使命である」という意識であった。また、原子力のイメージはとても良く、1955年の新聞週間の標語が「新聞は世界平和の原子力」であったことでも理解できるように、未来のエネルギーでした。
ところが、原発を進めようにも、日本よりはるか先に米英の技術が先行していて追いつかない。そこで日本がとった戦略が、次の世代原発開発でした。いわゆる高速増殖炉(もんじゅ)開発に的を絞ったのです。当時もそうですし現在もこの高速増殖炉の完成は日の目を見ない夢の技術ですが、これが完成しないかぎり世界中の原発は「トイレ無きマンション」状態です。成功した国はありません。この「もんじゅ」については後述します。
それで、原発の原子炉は輸入導入を急いで決めましたが、肝心の国内体制の受け入れ態勢が未定でした。それで日本独特の「縄張り争い」が始まります。国策会社か電力会社か、職種法人か電機メーカーかなど激しい競争の末、現体制が確立しました。それで「官民一体」となって原子力政策を今日ろくに推進することになります。この「官民一体」は変えられない、批判を許さない無責任体制を作り上げてしまったとも言えます。
さてここでタイトルにある、原子力発電を動かしているのは誰か?を簡単にまとめてみます(本当は簡単ではなく本一冊位になりますが)。
(2)日本の立場
原発推進は激烈な核開発競争とそのマイナス面を打ち消すために考えられた結果です。そのために、原発開発は欧米が先行していました。日本はアメリカに後押しされる形で開発・推進した結果、2000年以前の原子炉はほとんどアメリカ製を輸入導入したものです。基本的なノウハウはすべてアメリカが握っています。ただ、国産化の比率は徐々にあがり、2000年以後は90%以上と言われています。
(3)学会の動き
学会の動きをみると、はじめは開発・推進の中心的な役割を担ったのは、物理学者系でした。しかしそれもしだいに影がうすれ、台頭してきたのが工学系です。そして旧帝大を中心に1960年代は工学部、それも原子力関係で当時の秀才が集まりました。
(4)官界の動き
官界の動きをみると、科学技術庁(現文科省)は技術開発・推進をめざしてさまざまなプロジェクトを立ち上げましたが、ことごとく頓挫し、原発の主導権を通産省に握られるようになります。通産省が電力会社をコントロールするようになりますが、その例として原子炉の選定結果をあげてみます。
原子炉は加圧水型軽水炉(PWR型・WH製・三菱)と沸騰水型軽水炉(BWR型・GE製・東芝・日立)の二つの型が動いています。注目してほしいのは、この二つの型の導入数が拮抗しているということです。たとえば51基中PWR型が23基、BWR型が28基です。この背景には通産省が2グループに政策的見地から平等に仕事が割り当てられたからです。
さて、前回の原子力理解へのプロパガンダや今回の9電力体制や原子力政策などもっともっと述べてみたいのですが、あとは読者の皆さんにお任せします。
ここまで長々と書いてきましたが、2016年12月になって「もんじゅ」の廃止が発表されました。それで、「もんじゅ」の事を簡単に書いて今回は終わりたいと思います。
4.「もんじゅ」とは何か?
「もんじゅ」を考えるとき、上図の構造を描いておくとわかりやすいと思います。
(1)「もんじゅ」の位置づけ
原発で使用したウラン核燃料は完全に燃え尽きないで、ウランとして少し残る部分と新たに作られたプルトニウムがあります。このプルトニウムを再処理して原発の燃料に使う原子炉が「もんじゅ」で、高速増殖炉と呼ばれます。
(2)「もんじゅ」の物理的・化学的原理
「もんじゅ」は従来の原発とは3点で違います。
プルトニウムを使うこと、高速で中性子を衝突させること、冷却材のナトリウムを使うことです。
これが高速増殖炉が「夢の原子炉」「エネルギー問題の切り札」といわれる理由であり、「最も危険な原子炉」として廃炉運動につながる理由です。
プルトニウムの原子核に高速で中性子を衝突させると、エネルギーが発生すると同時に、簡単に言えばプルトニウムが減らないで増えてしまうという原理です(増えるので増殖)。
現在の商用原子炉は高速で中性子を衝突させると危険なので、減速した中性子(熱中性子)を使用します。その減速材料として水と制御材があります。
(3)なぜ「もんじゅ」は夢の原子炉、エネルギー問題の切り札といわれるのか
もし、この高速増殖炉が完成すれば、石炭や石油と違って、燃やしても材料が無くならない永遠にエネルギーを発生してくれる人類の夢の原子炉になります。科学者の究極の夢です。
(4)廃炉までの道のり
昨年12月に政府は廃炉の方針を発表しました。廃止の理由などの総括もなく何故廃止するのか、明確な理由もなく決定しました。ただ、菅官房長官が「運転再開に相当の期間と費用を要する」と発言しました。これを分析すると、再開に最低8年間、費用で5400億円かかる資産があり、実際はどれくらい期間と費用が必要かわからないので、しぶしぶ入ろ決定したのが真相でしょう。今までに20年で1兆円、保持するのに1日5000万円、冷却材のナトリウム事故処理など、あまりにも難問題続出ですから投げ出したのです。葉色決定といっても、廃炉期間・手順・費用もこれからです。
しかし、原子力発電を推進してきた関係者はこれで断念するはずもなく、次の手を打っています。即ち次世代高速炉の実証炉をフランスと共同で研究し開発することを決めています。正直言ってこれも肝心のフランス側もどう進めるのか検討している段階で、未知の世界です。
さて、今回の「もんじゅ廃止決定」は原発賛成反対の論を進めるための良き材料を提供してくれましたので、次回から本題に入りたいと思います。