第43回
日本語教師の醍醐味
現在、ゴールまであと半分です。久しぶりに語学教師として心底感動しています。
何十年も実際にいろいろな生徒を教えてきていますが、教師と生徒の相性というものはあるものです。
そう頻繁にあるわけではないのですが、教える方、学ぶ方、双方が目的を共有して同じゴールに向かい、その歯車がキチンと動き出すときの醍醐味は、白板に字を書きながら、発音練習を助けながら、背中がぞくぞくしてきます。
私は古いタイプの教師で、目の前にいる生徒のポテンシャル、というものをとことん伸ばしてあげたいと思ってしまうのです。
ただ、語学教育といっても、個人の生徒さんが個人で費用を負担して学んでいる場合と、例えば仕事の一環として“生徒”をしている場合はその環境や目的に大きな違いがあります。
過去10年ほどここ南アフリカで私が教えているのは、ずばり企業内の“業務”の一環として日本語を学ばなくてはいけない立場の生徒たちです。
つまり、業務の一環として一定の成果を上げることが要求されているのです。お給料をもらいながら勉強させてもらっているわけですから。
そういった生徒たちの中には、語学学習というものに対して、抵抗感があったり苦手意識があったりするケースもあるのです。語学を勉強する時に、肯定的な態度がないと、これは苦しいものです。
反対に、過程そのものをやりがいのある挑戦と捉えられたとき、その過程は爆発的に楽しい、知的好奇心に満ちた過程になります。
私は教師から生徒に“教え込む”というスタイルの教え方に賛成しないし、自分でも極力しません。私の授業は非常に徹底した帰納法で授業が進んでいきます。
「語学を教えるのに帰納法?」
とどれだけ多くの人に言われてきたでしょう。
でも、逆に、教師が一方的に上から生徒に情報を流し込んで、それが多くによく学んでもらえない、定着した学びになっていかないということを実際に経験してきました。
簡単に言うと帰納法とは、例をたくさん挙げて生徒自身がそこにある法則を見つけ出していく方法で、演繹法とはまず答えがありその理由を掘り下げていきます。
私がこういうった教育の考え方をはるか昔、大学で学んで以来、一貫して実践してきているのは、正直言って、幸運以外の何物でもありません。大きな人数をいっぺんに教えなくてはいけなかったり、クライアント側に教授法や教材の指定があったりすれば、実際、この手法を徹底するのは不可能です。
そういった意味で、これまでも現在も私は本当に恵まれた教師人生を送らせてもらっているのです。
さて、私の南アフリカの生徒たち。皆さん、スパルタ式の南アの先生たちに徹底した“演繹法”で鍛えられ、それをこなし、これまで学位まで取ってきています。
当然のことのように、学ぶべき内容、期待されているレベルの文書化を求めてきます。
いいですよ~!
「はい、これです!」
と渡す書類には、JLPT(日本語能力試験)の目標レベルでの到達すべき読む力とか書く力とか、話せる内容とかが説明されています。彼らは750時間でN4というレベルまで到達することが求められています。
生徒たちのほとんどはこれを見て愕然としてしまいます。当然ですよね。学ぶべき内容に対する知識がほとんどないのですから。
彼らは研修後、実際に日本へ行って複数年、エンジニアとして日本の職場で日本語を使ってお仕事をし、家族と日本で生活する必要があります。
南アフリカという日本語環境が教室以外まったくない環境で、ゼロから仕事ができる状態まで日本語を学ぶのは並大抵のことではありません。研修に与えられた時間は750時間、これを十分と考えるか、足りないと考えるか。
しかし、企業がビジネスの一環としてする研修です。情け容赦なし。生徒たちは与えられた課題にがむしゃらに取り組んで行くしかない、と眉毛きりきりさせて授業に臨んできます。
ところが、私の授業では、まず、生徒たちと確認することは自分たちの使っている共通言語である英語の文法整理から。
まず、「主語って何?」で、みんなが大混乱。
南アの英語話者たち、ネイティブの人もたくさんいるのですが、誰一人としてこういった品詞の違いをきちんと説明できる人はこれまで10年以上、一人もいませんでした。
で、これを帰納法でどう整理していくか、ということです。
生徒側は当然、私が、主語とはこうで、動詞とは、と説明をするのを期待し、静かに“待ち”の姿勢になります。最初の「主語って何ですか」が答えられなかった時点で、演繹法で学んできた生徒たちはこの体制に入ってしまいます。
が、ここで、私は徹底的に生徒たちに考えてもらうのです。
「何が主語?」
「主語がきちんとわかる文章を考えよう」
「その文章では何が主語で、何が動詞?」
やっと、出てきた答えをさらにきちんと定義させます。
主語は、文章の中でどんな役割を担っているのか、など。
生徒たちが口を揃えて言うのは、
「日本語を学ぶのかと思ってきたら、英語を学び直した」
これがどうして必要か、というと成人がこういったビジネスの目的でもって外国語を限られた環境、時間で学ぶ際、どうしても分析力が欠かせないからです。
すべてこれは英語で行うので、これが日本では現実的でないことも十分承知しています。
で、何に感動しているか、というと、今回受講している生徒たちが非常に素晴らしい進歩を見せてくれているからです。
日本語ゼロだった7月のはじめから、いえいえ、何が主語であるか、主語が文章でどんな役割をするかの明確な定義も持たなかった生徒たちが、2か月も経たないうちに、作文でこんな文章を作ってくれているのです。
「今日、取引先の会議に行くために会社の車を使いたかったのですが、使えませんでした。どうしたらよかったですか」
ここにたどり着くまでには、外国語としての日本語で、何を学んできたか、をざっと挙げてみましょう。
・ひらがな・カタカナ・漢字の書き方読み方(音、訓含む)
・約500程度の語彙の理解
・複数の助詞(てにをは等)の役割とその使い方
・一般動詞の分類(動詞の教え方は動詞を3つのグループへ分類してから)
・動詞の時制変化
・日本の社会での敬語の在り方、その種類
この他にも、例えば、“使う”という動詞を~たいという言葉を足して変化させ、それをさらに過去形にしてから、“の”を挿入して語尾を変化させたりもしています。
私が感動するのは、こういった複雑な文法をきちんと応用させながら、なおかつ自分の仕事の語彙を交えて、立派な作文にしあげていることです。
人間の能力って、なんて素晴らしいだろう、とつくづく思います。鍛えれば鍛えるほど、どんどんその力量が広がります。
しかも、今回担当しているグループには、こういった好成績を上げている生徒たちが複数人いるのです。
簡単、とは決して言いませんが、この段階の日本語の文法は例外が少なく明解です。が、理解して、覚えなくてはいけないことが半端な量ではないのです。
その煩雑さにめげることなく、繰り返し繰り返し、試行錯誤を繰り返しながらも、自分の可能性を広げていくその過程そのものが目の前で繰り広げられます。
その生徒たちに寄り添うことができる語学教師であることに日々感動しています。
あと少しで、750時間の半分に到着です。みんな、ゴールは見えてきたよ!がんばれ~!