第53回
「ありがとう」と言えること
「ありがとうございます。これは美味しいコーヒーですね」
これを聞いた瞬間、私は自分の目の前でコーヒーを飲みながらニコニコしている一人の女性がどれだけの成長を遂げたかを実感し、感動し、目頭が熱くなりました。
私は長い間、英語を教え、日々英語で生活している人間です。この発言はそんなに変わったものでも、複雑なものでもありません。
“Thank you. This is very good coffee.”
文法だって、難しいことは何もありません。
ところが、私にとって、この発言は、その場で涙が出るのを抑えるのに必死、そして何か月も、そしてこれから年々も決して忘れられない言葉の花束になりました。
「ありがとう」
と、人に向かって感謝の意を伝える、ということは簡単なことでしょうか。
いいえ、実は、感謝の意を伝える、という行為はそんなに簡単なことではないのです。例えば、自分の上司に心からの感謝を伝えたことはありますか?その時、どんな言葉を使いましたか?
ペイシャンスこの言葉を私に言ってくれたのは、我が家で働くスタッフの一人、ペイシャンスです。彼女はやはり同じように我が家で働くプレシャスの妹です。
プレシャスとペイシャンスは南アの最大の黒人部族ズールー族の女性で、最初年上のプレシャスが最初に、“掃除及び家事全般の下働き要員”として雇われました。プレシャスは現在では私が経営する会社のお弁当部門のマネジャーになるまで昇進しています。
早い時期からプレシャスの利発さ、まじめさ、責任感の強さに感嘆していた私と亡くなった夫は、長い時間をかけて、彼女の成長を見守ってきました。彼女には運転免許を習得させたり、日本料理を教えたりし、“家事の下働き”といった職務権限をとっくの昔に卒業し、いまでは会社の重要なスタッフの一員となっています。
プレシャスは今では日本の家庭料理であれば、ほとんど一人でなんでもこなせます。
プレシャスとペイシャンスそのプレシャスの妹、ペイシャンスは、私の両親が南アに来た時に両親の世話をする、という目的で、我が家で働き始めたのです。残念なことに、もう私の両親は亡くなりましたが、彼女はその後も我が家のスタッフとなり、現在に至ります。
働き始めた当初、ペイシャンスは英語もそんなには話すことはできませんでした。彼女の姉のプレシャスとは性格も異なり、おとなしく、いつも姉の裏で控えめにしているような女性でした。
が、仕事は丁寧、責任をもってあたる、料理の下準備も手際がいい、という彼女のいい面が、昨年以来お弁当事業を業務の一環に入れてから、一挙に花開いた感があります。
当然、週2回のパートタイム勤務から、週5日のフルタイムに昇格、彼女の存在はもう欠かせないものになっています。
そういった環境の変化も大きく彼女の内面を豊かにしたようです。
実は、アパルトヘイトという人種隔離政策で、つい最近まで人間を肌の色や人種で差別していた南アフリカの社会は、まだまだ差別が色濃く残っているのです。
例えば、使用人が雇用者とコーヒーを一緒に楽しむ、といったことさえ、まだまだ珍しい、という現実があります。
そういった現実を踏まえると、彼女の立場で、私にお礼を言う、そのお礼を言っている内容への評価をする、という一連の行為がいかに彼女の中で自尊感情が確固としたものとなっているかという証だと思うのです。
自分に自信がなければ、そして、私たちに信頼関係がなければ、彼女にとって、こういった素直な感情の表現は難しいものだと思うのです。
もっとも、本人はそんなことは思ってもいないかもしれません。でも、私にとっては、これは人生のいろいろな局面の中でも、かなり大きく、そしてこれからも記憶にしっかりと残るものになるでしょう。
「うんうん、美味しいコーヒーだね」
と答えながら、心の中で、「ありがとう、ありがとう」を何十回も繰り返しました。
言葉の教師であるからかもしれませんが、私にとって、言葉が伝える人の思い、というものは何にも勝る人生の贈り物です。