冒険する科学者会報33号

旧冒険する科学者.jpg

第28回

感じ続けること

  2月から3月にかけて、妹の結婚式に出るために東京の実家に里帰りしていた。東日本大震災から1年が過ぎようとする中で、本屋に行けば関連本が平積みになっているし、新聞を開けば必ず特集記事があった。こういった情報の絶対量にはつくづく感心する。海外で報道されて日本ではあまり報道されない情報も確かにあるようだけれど、それは情報が国内向けに隠されているというよりも、むしろ視点の違いから生じるものだろうと思っている。日本にいる間にできる限り読みあさり、視聴したけれど、これだけの記録が残っていくからには、それだけの教訓も同時に学び取っていかなければいけないのだろう。
  東京に戻ってからはあちこちに出かけてみた。以前と現在で、どこで何がどのように変わっているか、自分の足で歩いて確かめてみたわけだ。抽象的な言い方をすると、震災が地面からはぎ取って行ったのは、詰め物のようなものではないかとここしばらく僕は考えていた。そこにある何かをとりあえず機能させるために、隙間を埋めるために詰め込まれて、いつしか身動きがとれなくなってしまったもの。それが取り去られてしまうと、それまで目立たなかったほころびが一夜にして至るところに顔を出す。何らかの不備であったり、誤解であったり、非効率性であったり、色々なかたちをとって出てくる。そういったほころびをつくろい、修理していくか、あるいはプログラムを全面的に書き換えてしまうのかという選択を迫られることになる。どのような選択がなされたのかさえ、1年2年では明らかにはならないかもしれない。それというのも、修理するにしても書き換えるにしても、どちらか一方だけを選ぶことはできないからだ。総合的にみてどちらの選択が結果的に比重を占めるのかは、時間がたたないとわからない。

  震災から1年が経った時点で、海外で制作・報道されたドキュメンタリーが一様に問いかけていたのも、まさにその点だったと思う。1年が経ち、ある程度の応急処置がなされた。さて、ここから日本はどのように立ち直っていくのだろうか。僕もこのことについてはカナダ人によく訊かれた。奥さんの実家でも、フィールドでも、学会でも、パーティーでも、それこそありとあらゆるところで。でもそんなこと訊かれたって、僕にはわからない。質問が漠然としすぎているし、いきなり「日本が」などと国単位のことを持ち出されても困る。だからといって「知ったこっちゃない。しっしっ」と追っ払ってしまうのも無責任である。
デーヴィッド・スズキ.jpgデーヴィッド・スズキ  カナダで作られた震災のドキュメンタリーでは、日系生物学者のデーヴィッド・スズキがホストを務め、原発災害に関して執拗に問いかけていた。スズキに言わせれば(彼はカナダで生まれ育った日系三世であり、日本は祖父母の母国ではあるものの、彼自身の母国ではない)、日本が原発災害をどう処理し、エネルギー問題をどう解決するかで、日本の将来性と方向性が明らかになると言い切っている。曰く、当面の危機が過ぎ、根本的な問題を解決するとなった時に、怒ることの苦手な日本人はいささか忍耐が強すぎるかもしれない。粘り強く働いていくだけで、震災前の状態に復旧することは日本人にとって難しいことではない。しかしそれは同時に、経済発展を駆け抜けて「失われた10年」の停滞に行き着くモデルにこだわるということでもある。新しいメッセージを発せないままに追いつかれ、追い越されていく船に乗り続けることでもある。いささか極端な見方であるかもしれないが、筋は通っているかもしれない。
  たとえば、とスズキは言う(あくまで『たとえば』という文脈においての話である)。原子力発電も、火力発電も、地熱発電も、水を沸かしてタービンを回すという点においては同じである。どのエネルギーを使ったところで、水を沸かすことに違いはない。多くの火山を抱える日本で、なぜこれまで地熱発電が真剣に開発されなかったのだろうか。もちろん、原子力発電から地熱発電に切り替えることが可能だというわけではない。技術的、環境的な問題もある。しかし、もし一歩立ち止まり、問題の根本的な部分について考えるとしたら、日本のような火山国に地熱発電所がこれだけしかないことの方がむしろ驚きではないか。それは太陽光や風力や潮力にも言えることではないか。そういった根源的な疑問をもち、それに応えていくことで、日本は世界に新しいロール・モデルを提供することができる。それが日本の新しい経済価値になる。

 デーヴィッド・スズキに対しての異論も反論ももちろんあると思うけれど、この番組は、今のところ前向きに震災からの復興を見守っているカナダ人、あるいは欧米人の見方をよく反映しているといえるだろう。日本が立ち直るかどうかではなく、日本がどう変貌していくか、ということに興味・関心が移っているようだ。そりゃ、高速道路でも何でも、手際よく物事を片付けてしまう様を(実際にはそれほど手際よく物事がなされたわけではないのは百も承知しているが)テレビやインターネットで見せられたら、震災から立ち直るのは日本人にとっちゃちょろいことだと思われても仕方ない。

  でも里帰りしている間に、「本当にそうなのかな」という気がしてきた。そしてカナダに戻った時も、その「どうなのかな」という気持ちを何とか説明しようと試みた。うまく言えないけれど、何もかも日常生活を取り戻した、表面上は何も変わらない地域と、日常生活を維持するためにまだたくさんの日常ならざることをしなければいけない地域では、意識的なギャップが大きくて、まるで二つの国が存在しているみたいだ。これはかなり極端な言い方で、実際にはグラデーションのようなものがあると思うのだけれど、ゴムを引っ張っていくと、端っこがそのぐらい極端なところまで伸びきってしまいそうな気がする。ひとの話を聞いていて、「うんうん、よくわかります」と相づちを打っているのに、実際には何一つ頭に入っちゃいない、ということが僕にはたまにあるのだけれど、そんな状況に少し似ている。想像力の鎖がそこで切れてしまって、自分でつなげようとしていない状態だ。
  被災された方々がどれだけ言葉で語っても、そのすべてを自分の経験のように理解することはできないし、理解したとしても軽々しくそう言うのは失礼にあたる。だからといって、理解できないものなんだと思ってしまったら最後、そこで想像力の鎖が切れてしまう。「がんばろう日本」という、発想自体に無理のあるスローガンもよけいに空っぽになる。あちら側の言葉がこちら側に届かず、こちら側の言葉もあちら側に届かない。しかしこの無力感に道を譲ってしまえば、色んなことを諦めてしまうことになるのではないか、と思っている。行動につながらなくても、何かを感じ続けることだけは、最低限必要なんじゃないかと。この震災については(他のたくさんの個人的な災禍と同じように)、感覚を麻痺させてしまってはいけないんじゃないかと。

  そうはっきり考えたのは、用事で六本木に行った時だった。ついでに、まだ行ったことのない六本木ヒルズに寄ってみた。話に聞くヒルズが(東京に住んでいる人にはそんなに目新しいものでもないかもしれないけれど)どんなもんだか見てやろうと思ったのだ。夜もまだ早かったので、お店も開いていた。ぐるぐる回ってみたけれど、確かに人間の行動を予測して、先回りして潜在的な願望をかなえてしまうような、徹底的に計画された場所だということがよくわかった。彼らは本当に街ごと作り替えてしまったのだ。
  歩き疲れて出発点に戻った。あの、ビルの前に置いてある、クモみたいな彫刻がありますね。ほんとにクモなのかどうかはともかく、あの彫刻の足の下から歩き始めて、また戻って来た。このクモはカナダの首都オタワimage.jpgの美術館の前に置いてあるものと同じで、そういう意味でも、「ここはいったいどこなんだろう」と考えるのに十分だった。そこで立ち止まって空を見上げると、あの高い高いビルのすぐ横にきれいな半月がぽっと浮かんでいた。そして、ビルの横の排気口から、積乱雲みたいなスチームが放出されて、それが月の方へ向かってゆっくりのぼっていった。ここが六本木じゃなくても、これはどこでだって同じことなんだ、と、自分でもよく意味のわからない言葉が頭の中に並んだ。
  カナダに戻ってからも、よくあの光景を思い出す。そして考える。あの都会は何を学び取っていくのだろうか。どこか遠くにいる人のための場所が、そこを歩く人たちの頭の片隅にあるだろうか。僕の中にもあるだろうか。