第51回
父のこと
皆さんこんにちは。前回の会報ではこの「なめとこ山通信」お休みしてしまいました。すみません。前回、「どうなる、俺!」と書いたので、皆さん、「どうなった?!」とお思いでしょう。・・・が、どうもならなかった、というのが答えでして、お恥ずかしい限りです。今回、ここに書こうと思ったことは、私のことではなく、やはり私の父のことです。以前、「母のこと」という題でも文章を書きました。今回も、あの時のように、ちょっぴり私小説風になってます。全部が全部本当かどうかは・・・、ということで、よろしかったら、お付き合いください。
昨年の夏、父が亡くなった。86歳だった。8月は簡単な葬儀、ということだったが、それでもお坊さんが何人も来た。父は住職だったので、特殊な葬式であった。兄が、岩手日報に本葬儀の告知を出した。本葬は、11月に行われることになった。
父は昭和5年、岩手県に生まれた。家は小さなお寺だった。父の子どもの頃のことは、同じような話を何度も聞かされていた。いわく、昔の除夜の鐘は深夜12時を過ぎてから撞いていたので、終わるのは本当に遅くなって大変だったとか、夜の山を越えてどこどこへ使いに行った時は灯りもなくて本当に怖かったとか、母親(私の祖母)は盛岡のお寺で、幼少期の石川啄木を抱いたことがあると自慢していたとか。岩手の片田舎で育った父だが、宮城県の旧制二校に進んだ。私が子どもの頃、公園の池でボートに乗せられたことが何度かあって、その時の父は水を得た魚のように、グングンとボートを漕いでいたのを覚えている。二校時代の父は、ボート部だったのである。(二校の同窓会は今はもう解散したそうだが、「第二高等学校尚志同窓会」といった。家には、「尚志」という会報が届いていた。私の名前は、そこからとられたのだった。)父は、新制の東北大学に進んだが、考えるところあって中退し、後に駒澤大学に入って仏教の研究を志すことになった。さらに駒澤大学卒業と同時に東京大学大学院へ進んだ父は、同博士課程を満期中退して、駒澤大学に職を得た。そして、昭和51年から駒澤大学の教授となった。そういうわけで、私にとっての父の印象は、大学教授としての父であった。私が小学生の頃は、私よりも遅くに出勤していた。それで私は毎日、「お父さん行って参ります」と父に挨拶して小学校へ登校していた。正直、怖い父親だった。家では時に、母を怒鳴ることがあった。決して手を挙げることはなく、子供たちに怒鳴ることもなかったが、怒鳴られる母を見ていることが、子供心に怖かった。しかし普段は、いろいろな所に連れて行ってくれる優しい父親だった。東京国立博物館には何度も行き、そこで初めてミイラを見た。上野動物園では長い列に並んで、パンダを見た。もちろん、カンカンとランランだったはずだ。カンカン、ランランは、私が5歳の時に上野動物園に来ている。5歳の時の記憶なのだろうか。多摩動物園では、私が迷子になったと、何度も聞かされた。しかしその時の記憶は、私は曖昧である。父自身は上手ではなかったのに、冬は岩手でスキーにも連れて行ってもらった。そう、夏休みと冬休みは、必ず一家で、岩手のお寺に帰省していたのだった。
私が中学の時、父は日本学士院賞を受賞し、新聞に載った。新聞記者が家に来て、朝刊に載せる写真を撮っていったのを覚えている。受賞の晩餐会では、昭和天皇の侍従長と隣の席になり、面白い話を聞いたと、何度も聞かされた。父の一番の自慢話だった。父がどんな内容の学問を専門に研究していたのか、私には最後までさっぱりわからなかった。父の本葬儀が終わってから、駒澤大学の教授である奥野先生が、私を食事に誘ってくれた。奥野先生は大学のゼミで、父の一番最後の教え子だった。恥ずかしながら、私は奥野先生に、「父が教えていたのは、どんな学問なんですか?」と聞いてみた。父の専門は中国仏教思想史で、漠然としたことは私も知ってはいた。奥野先生によれば、特に三論教学と呼ばれる分野の大成者、中国僧の吉蔵に関する研究を父はしていたということであった。「それは、お経の解釈のような学問ですか」という素人のような質問に、奥野先生は優しく答えてくださり、そうではなく、どちらかというと哲学的なものだと教えてくださった。しかし私には、父が哲学者であるとは、ピンとこなかった。父は家では、自分の研究の話をしたことがなかった。私が子どもの頃に怒鳴っていたことが時々あったのは、研究に行き詰まり、イライラしたことがあったせいだったのかもしれないと、今ならそう思える。家での父は、テレビで大相撲やプロ野球を観戦し(いつからか阪神タイガースのファンになっていた。)、ビールを飲み、推理小説が好きで、甘いものが好きという、ごく普通の(?)父親だったと思う。
高校生になって、私は水泳部に所属したので、夏休みには岩手に帰らない年が続いた。そんな夏休みを過ごしたのは、初めてのことだった。大学受験に失敗して、なんだか少しずつ、父とは話をしなくなったと思う。浪人して、私はT大学に入学した。第一志望はS大学だったけれど受からず、とにかくTに入学しろというのは、父の意見だった。
卒業式の前に、父が話しかけてきたことを覚えている。「お前がよく歌っている、乾杯とかいう歌があるだろ」そんな感じだった。それは、長渕剛の歌だった。「ちょっとその歌詞を教えてくれ」と父に頼まれ、私は歌のサビの部分を父に教えた。そして卒業式、父は、「諸君もよく歌っているであろう、この歌の歌詞を、これから旅立つ諸君への結びの言葉として送ります」と、私が教えた「乾杯」の歌詞を読み上げたのだった。広いホールでたくさんの卒業生を前に祝辞を語る父は、ただ私に向かって、その言葉をかけているのだと、その時私は思ったのだった。
今、君は人生の大きな大きな舞台に立ち、遥か長い道のりを歩き始めた、君に幸せあれ。
大学を卒業しても、私は院に進んだので、T大に残った。父は、任期は4年であったが、新学部を作るという事業が上手くいかなかったということもあって、任期途中で大学を退職してしまった。ゴリゴリと、やりたいことを力で推し進めたけれど、学問とは違って大学の運営は、父の手腕には合わなかったのかもしれない。退職後、岩手のお寺に戻った父は、退職金もつぎ込んで、お寺をすっかり建て替えるという大仕事を成し遂げた。檀家の人達からは先生と呼ばれ、信頼もされていたようで、その方が、大学の学長でいるよりも似合っていたと私は思った。11月の本葬儀の時に、檀家代表の方が弔辞で、こんなエピソードを語ってくれた。「先生は、おっかない和尚さんでした。ある日、先生がお経をあげているのに、参列者がザワザワと話をしていることがありました。その時先生は、お経を唱えるのを止め、『うるさい! 静かにしろ!』と一喝し、その場をシンとさせた後に、またお経を続けたのでした。帰りに一緒の車に乗っていた私に、先生はこう語りました『さっきはビックリしたろう。けれど、こっちも真剣にお経をあげているのだから、皆にも真剣に聞いて欲しかったんだよ。』怖いけれど、優しい先生でした。」父らしいエピソードだなと思った。真っ直ぐで真面目で、わりとすぐにカッとなって怒鳴って、自分のやりたいようにやって。でも、お寺に引っ込んでからは、だんだんと怒鳴ることはなくなっていった。兄が結婚して孫が出来てからはなおさらで、晩年の父しか知らない人には、普通の好いおじいちゃんであったと思う。
私が、アコンカグア登山に失敗して高山病のような症状のまま帰国し、病院では脳腫瘍の疑いありと診断されて手術を受けることになったことがあった。母は岩手から出てこられなかったが、手術の日には父が病院へ来てくれた。何時間にも及んだ手術の間中、父は待合室の椅子にずっとじっと座って手術が終わるのを待っていてくれたのだと、後で看護師さんから聞かされた。本当に、どんなにか心配をかけてしまったことだろうと思う。いつまで経っても自分は、父に世話をかけてしまう子どもだった。身体の弱かった母が亡くなり、お寺の手伝いをしてくれていた叔母さん(父の妹さん)が先立っても、父はずっと元気で、ずっと長生きするかのように思えた。
東日本大震災の時、父は東京にいた。大学の奥野先生たちと食事の約束をしていたとかで、揺れがおさまらないのに、「奥野くんと約束があるんだ」と家を出て行こうとしたので、私の妻が慌てて止めたのだと後から聞いた。東北新幹線が不通になってしまったので、父はしばらく、岩手には戻れなかった。郷里の山田町などが津波にのまれるのをテレビで見て、父はどんなことを思っただろうか。幸い、お寺のある場所は山に近く、津波の被害は全くない場所だったし、お寺は建て替えたばかりだったので、大きな揺れにも耐えたのだった。岩手に帰って、父は岩手から離れることがなかった。東京に出てきたのは、あの時が最後だったと思う。
岩手で暮らす父の身体に異常が起きたのは、昨年の1月頃であった。トイレで座ったきり、立ち上がれなくなったという。お寺の住職の仕事を継いだ兄が父と一緒に住んでいたので、その後病院を回って、ようやくわかった原因が、パーキンソン病という診断だった。父は、盛岡の病院に入院して治療を受けることになった。5月の連休の時に、退院許可を取って盛岡から山田町のお寺に一時帰宅が出来た。兄は、病気が快方に向かえば、父を老人ホームに入れたいと考えていた。私は、できればお寺に帰してあげたいと思っていたが、一緒に住んでいるわけでもないので、兄に進言することはできなかった。帰宅時、主治医の先生からはお酒はダメだと言われていたが、父は家でお酒が飲みたいと言った。パーキンソン病は、進行すると手足が動かせなくなるだけではなく、喉の嚥下能力も低下して誤嚥するようになるということで、食事はとろみのあるものを作った。けれど、やっぱりお酒が飲みたいと父が言うので、好きな缶酎ハイは好きに飲ませてあげた。盛岡の病院へ送る帰りの道の駅でも、父はソフトクリームを食べたいと言ったので、普通に食べてもらった。
6月、チャグチャグ馬コというお祭りを見に行くついでに、父のお見舞いに家族で行った。その時は、一人で普通食を食べていたし、少しよくなっているように見えた。病院では食べられないだろうから、盛岡できんつばを買っていった。こっそり渡したが、甘いものが好きな父は喜んでいた。結局、夏になって誤嚥がもとで肺炎になってしまい、最後にお見舞いに行った時にはもう話もできず、父はそのまま亡くなってしまったのだった。お医者さんに止められても、自分で好きなものは食べていたのだし、やりたいことはやって来た人生だったのではないかと思う。ただ、最期にはやはり、お寺に帰してあげたかった。「お盆に戻りたいんだよ」と、電話で聞いたのが、父との最期の会話になった。
8月の葬儀の時も、11月の本葬儀の時にも、涙はそれほど溢れてこなかった。なぜだろう。11月の本葬儀は、盛大なお葬式となった。20人くらいのお坊さんが来て、駒澤大学関係者も東京から総長先生をはじめ、父と親しかった先生方が参列してくださり、それらの人達が皆お経を唱えるわけだから、本堂中にそれは響き渡っていた。最後の最後まで、私にとって父は大きな存在だった。最期の最期まで、越えられない存在だった。それを見せつけられたお葬式だった。父さん、ずるいよと、少し思った。
母が亡くなって、父も亡くなってしまって、私は、一人になったのだという気がした。私はどこから生まれたのか、その根本を絶たれてしまったように感じた。私はようやく、歩き出したのかもしれない。
父さん、どこから見てますか。父さん、私は誰ですか。父さん、私は何者ですか。私は、貴方のところへは行けないかもしれない。私は私の行く先へ向かって、歩いて行くのだと思います。父さんの愛に、ようやく気が付いたということなのかもしれません。もっとたくさん、教えてもらえばよかった。もっともっと、話をすればよかった。連れて行ってもらったところ、してくれたこと、色々な思い出が走馬燈のように溢れてきて、あぁ、私は何が言いたかったのだろうと思います。父さん、ずるいよ。父さん、ありがとう。
僕の前に道はない
僕の後に道は出来る