第59回
長崎旅行
皆さんこんにちは。2月になって、年度末だから忙しくなるかな、と思っていたら、ここ数日でコロナウイルスの件で、学校は慌ただしく対応に追われました。3月になって生徒は登校しなくなり、これからどうなるのだろうという思いでいっぱいです。
今回の「なめとこ山通信」は、そんな不安な思いは一度脇に置いといて、サクッと冬休みの家族旅行の話題にしました。なんかこう、心の中にあるモヤモヤもさもさした気持ちが、一時でも晴れますようにと思っています。
私の父はもう亡くなりましたが岩手の出身で(仕事を持ってから東京で生活していました)、私も子どもの頃は夏休みと正月は岩手で過ごしていたので、わりと東北の人間という自覚があります。(この連載の「なめとこ山」とは、岩手出身の宮沢賢治の「なめとこ山の熊」というお話から拝借しています。)そんな私はどういう縁か、九州出身の人と結婚しました。ただ、妻の実家へ挨拶に行ったのは、結婚前の一度きりで、以来、特に理由はないのですが、(強いて言えば遠いから)もうずいぶん(10年以上ですね)、お義父さんお義母さんとはご無沙汰してしまっていたのでした。岩手には父も母ももういないので、自然な成り行きとして正月は九州へ行こうかということになりました。その時、どこか他に行きたいところはないかなぁと考えていて、「長崎に行ってみたいなぁ」と、ふと思ったのでした。(妻の実家は、長崎ではないのですが。)それならもう、気が変わらないうちにと、妻が色々手配をしてくれて、今年の正月は家族で、長崎旅行へと出かけたのでした。
1月3日。朝、早起きしてバスで羽田へ。今は、最寄りの稲城駅から羽田空港行きのバスがあり、寝ていても羽田空港に到着するので大変便利です。ただ少し早く着きすぎます。久しぶりの飛行機に乗り、10時過ぎには長崎空港に到着しました。長崎市内は、空港からは少し離れています。バスで50分くらいです。長崎駅近くに宿を取っていて、そこを拠点として市内観光をしました。ホテルで路面電車の一日乗車券を購入して、いざ出発です。とりあえず、中華街へ行って、お昼を食べました。もちろん、長崎ちゃんぽんです。事前に評判を調べていたお店もあったのですが、そこは混んでいて、まぁそんなに変わらないだろうと思って、すぐに通される店に入りました。二階の座敷で(中華料理ですが、座敷でした。)ちゃんぽんをいただきました。普通に、美味しかったです。ま、私はチェーン店の長崎ちゃんぽんリンガーハットでも、美味しいと思うのでした。
お腹がいっぱいになって、また路面電車で移動して、世界遺産の教会、大浦天主堂大浦天主堂へ行きました。人がたくさんいて、さすが世界遺産だなと思いました。この大浦天主堂と併せて12の構成資産が、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として、2018年に世界文化遺産として登録されています。実はこの後、世界遺産構成資産の一つである、天草の崎津集落にも行ってみました。そこにはこぢんまりとした崎津教会があり、また、民家のようなところが資料館になっていました。その資料館に入ってみると、学芸員の方?がいて、「ここでは教会が世界遺産なのではなくて、この民家が、潜伏キリシタン関連の遺産なんだよ」と説明してくださいました。なるほど、ここに新しく教会が建てられたのは1934年頃のことで、もっとそれ以前(江戸時代)からある、当時のキリシタンが潜伏していたことが偲ばれるこちらの家の方が、世界遺産なのでした。一方、大浦天主堂は江戸時代の末期、フランス人のために1864年に建てられ、その時(禁教令から約250年を経て)初めて神父が潜伏キリシタンと出会ったとされ、そのことが歴史的意義を持っているとのことでした。また、洋風建築として、1933年に国宝に指定されてもいます。
大浦天主堂をあとにして、私たちは歩いて、孔子廟というところへ行きました。キリスト教教会があり、すぐ近くには孔子廟があるという長崎は、な孔子廟んとも不思議な歴史を持つ街ですね。長崎孔子廟ができたのは1893年(明治26年)で、その後、廟内には華僑の子ども達のための小中学校もできたそうです。もっとも、長崎と中国との歴史は鎖国下の江戸時代からあり、最盛時には1万人ほどの福建省出身者を中心とした中国人が、長崎市中に住んでいたそうです。そうした人達が幕末になって新しく、長崎の中華街を形成していったのです。さて、孔子廟は行ってみると、中華街、大浦天主堂ほどには賑わっておらず、と言いますか閑散としており、なんだか寂しい印象でした。でもここは、1月下旬からの長崎ランタンフェスティバルにおいて、美しくも幻想的な灯りに包まれることになるのでした。う〜ん、時期をずらして、また来てみたいです。
孔子廟から、ちょっと歩くとオランダ坂という坂道があります。石畳の、雰囲気のある坂でした。その辺りを散歩してから、また路面電車に乗り、私たちは出島に行ってみました。そう、昔習った日本史を思い出してみれ出島ば、長崎と言えば出島、じゃないですか? そこで、長崎に行ったことのある人から事前に話を聞いてみました。が、「出島はそれほど面白くないよ」と言うことでした。でも、行ってみるとそこは、プチテーマパークのようになっていて、私的には、教会や孔子廟よりも、楽しいところでした。娘も、スタンプラリーをしたり、平賀源内のエレキテルを回して発電してみたりと、なかなか楽しめたと思います。もう少し早く来れば、長崎ご当地グルメが楽しめるレストランもあったのですが、営業時間は残念、3時まででした。後日、レストランのメニューを確認すると、トルコライス、ビーフライス、そっぷライス等々、けっこう色々な料理が食べられます。出島で、もう少しゆっくり時間をとって遊んでみたいと思いました。
それから最後に移動した場所は、眼鏡橋で、ま、どんなところかなって感じで見に行きました。夕食は駅ビルのレストラン街で食べました。長崎、なかなか見所の多い街です。
1月4日。この日は、長崎原爆資料館へ行きました。原爆の惨状をはじめ、原爆が投下されるに至った経過や歴史を、勉強し直しました。小学62連アーチの眼鏡橋年生の娘は、初めての長崎。何か、少しでも学んでくれることがあればいいかなと思いました。テレビで、「この世界の片隅に」というドラマ(映画ではアニメ)を見たことのある娘は、戦争があったということや、広島に原爆が落とされたということは、なんとなくわかっていると思います。ただ、今の平和な日本と、かつての広島や長崎と、どう繋げられたかなという気もします。
資料館を出て、ちょっと足を伸ばせば平和公園ですが、その前に寄り道として、浦上天主堂まで歩きました。浦上天主堂(カトリック浦上教会)は、1914年(大正3年)に、大浦天主堂にも負けない東洋一の聖堂として完成しました。しかし1945年の原爆投下により、爆心地から至近距離にあった天主堂は、原形をとどめない姿まで破壊されたのでした。当時、天主堂の廃墟は、原爆遺構として保存すべきという運動もあったのだそうです。それはつまり浦上天主堂が、広島の原爆ドームと同じ役割を担う可能性もあったということなのです。しかし結局は、原爆被害者の当事者である浦上教会が、廃墟を撤去しての再建を望んだことや、また当時、アメリカのセントポール市と姉妹都市の提携をした長崎市長が、アメリカに配慮する形で廃墟の撤去を決定したことにより、長崎の原爆ドームは後生に残されなかったのでした。(その辺の事情は、高瀬毅著『ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」』という本に詳しく書いてあります。)浦上教会は、1959年(昭和34年)に再建されます。その後改修も経た教会は、世界遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」に含まれることはありませんでした。
さて、そこから私たちは、平和公園へと戻ってきました。ここ、長崎の平長崎平和公園和公園へは、私は学生時代にオートバイで旅をしていた時に訪れたことがありました。それ以来、何十年かぶりの再訪でした。懐かしいという思いと、こんなだったっけかという思いとが、複雑に湧いてきました。よくテレビで見る平和祈念像は、間近で見ると、こんな色をしていたんだという発見がありました。・・・。妻も同様に、こんな色をしていただろうか、と感想を述べます。九州出身の彼女も、学生時代に平和公園を訪れていました。祈念像の色問題は、その後すぐに解決しました。被曝75周年を前に、劣化した像の修復(塗り直し)が行われ、昨年平成31年3月に完了したとのことでした。それで、なんだか新しい感じの色になっていたのでした。
お昼になって一度長崎駅まで帰り、食事を摂りました。(長崎で、佐世保バーガーを食べました。美味しかったです。)その後は長崎を発って、妻の実家へとフェリーで向かいました。一日半くらいの、駆け足の長崎ツアーでしたが、色々思うところもあり、来てよかったなと思いました。今から来年の正月はどこへ行こう、なんてことも考えています。