第29回
From Chicago to Ottawa
自宅の裏庭の一角に扇型をした菜園があり、僕たちはそれをボストン・レッドソックスの本拠地になぞらえて「フェンウェイ・パーク」と呼んでいる。今年の春、引っ越しがすんで、僕が最初に手を入れたのがこの一角だった。フェンスを埋め込み、鍬を入れ、各種野菜の種を蒔き、苗を植えた。そこに元から生えていた紫陽花をセンターフィールドに、百合やスズランは内野に見立て、左翼ファウルラインにはホウレン草、レタス、スクアッシュやジャガイモを、右翼ファウルラインには人参と大根を配した。ベースパスにそってカボチャが並び、ショートストップの位置にはトマトが、セカンドの定位置にはナスがあり、ホームベースにはひまわりと各種ハーブ。そしてフェンウェイに見立てるからには忘れてはならない。レフトフィールドは古い物置小屋にぶつかって、野球ファンがグリーン・モンスターと呼ぶフェンウェイにそびえ立つ巨大な壁にぴったりだ。ここに物置の壁へ蔓をのばす豆類を植えて、野球場にインスパイアされた菜園ができあがった。
僕は何も趣味だけで菜園を作ろうとしたわけではない。引っ越し当時、コロナウイルスの感染は拡大の一途をたどっていて、僕たちはアメリカの中西部にあるシカゴから、カナダの首都オタワへ脱出してきたのだ。それは脱出といって差し支えないほど緊迫した引っ越しだった。オタワはロックダウンの真っ只中にあり、生活必需品を扱うものをのぞけば、ほぼ全ての店舗が閉まっており、その状態が何ヶ月続くかわからなかった。夏から秋にかけて食料品が値上がりすることを見越せば、たとえ少しでも自給できる作物があると助かる。何しろ最悪の事態として、戦時中のような混乱がやってくる可能性だってあるのだ。脱出直前、人が消えたシカゴの街を目にしていた僕たちには、アナーキーな状況が遠いものであるとは思えなかった。
といったわけで、自宅の庭土を耕すことにしたのだけれど、どうせ手を入れるなら少しは洒落っ気も欲しい。あと数年経てば取り壊す必要がありそうなおんぼろの物置小屋を眺めていて、僕は、そうだこれをグリーン・モンスターに改造してしまおう、こことここにフェンスを埋め込んで、ミニチュアのフェンウェイ・パークを作ってしまおう、と考えついたのだった。
この会報に原稿を書いていたのはおそらく10年ほど前のことで、その当時、僕はカナダ西部アルバータ州のエドモントンに住んで、古生物学を研究していた。ご無沙汰していたその期間の出来事を簡潔にまとめるなら、大学時代の同級生と結婚し、十数カ国を巡って調査研究を進め、修士と博士を修め、2018年に子どもが生まれ、シカゴ大学にフェロー職を得て1年半ほど務めたのち、ここオタワにあるカナダ国立自然博物館からオファーが舞い込み、コロナ禍のなか引っ越しをして、今は自宅から博物館の仕事をし、客員教授としてオタワ大学とカールトン大学の学生の面倒をリモートで見ている。
ここで、「おしまい」といって打ち切ってしまうことのできるぐらい、直線的な軌跡だ。でもさすがにそれではつまらないので、もう少し続ける。シカゴの話をしよう。
ジョン・ランディスの映画「ブルース・ブラザーズ」で、ジョリエットの刑務所から出てきたジェイクがエルウッドのアパートに泊まるシーンがある。一部屋の狭いスペースにベッドと冷蔵庫と簡易キッチンとレコードプレーヤーがぎっしり詰め込まれ、窓のすぐ外を高架鉄道がひっきりなしに通り過ぎる。これはシカゴのダウンタウンの通称「ループ」と呼ばれる地区で、今でも多分にその当時の雰囲気が残っている。僕はこのシーンがとても好きで、それこそ学生時分、最初に見たときにはその映画の意味するところも何も、まったくわけがわからなかったのだが、そのシーンだけはしっかりと脳裏に焼き付いて離れなかったのである。
「ブルース・ブラザーズ」に通底するのはある種の憧憬だ。ブルースという黒人の音楽がシカゴという土地と結びついたとき、そこに特別な化学反応が生まれる。マックスウェル・ストリートの蚤の市をブルース・モービルが走り抜け、道端でジョン・リー・フッカーが「Boom Boom」を歌うあのシーンに、それは集約されている。清濁が渾然一体となったエネルギーに溢れる、あれこそがシカゴだ。
その憧憬は、僕にはとてもよく理解できる。同じような憧れを、僕はシカゴ大学の進化生物学委員会に抱いていたからだ。この集まりは、1960年代に結成されてからというもの、筋金入りの論客を揃えることでつとに有名である。学派と呼んで差し支えないほど一貫した「シカゴの進化生物学者たるものかくあるべし」という哲学を共有するにも関わらず、決して仲良しグループではなく、それぞれてんでんばらばらに好きなことをやっている。外から見るとどうなっているのかよくわからない。また映画の喩えになるが、「七人の侍」というイメージを持ってもらうとわかりやすいかもしれない。
そのシカゴ学派進化生物学を代表する存在だったのが(今はもう亡くなってしまったが)リー・ヴァン・ヴァレンという人物で、オリジナルな着想力ではピカイチの人だった。「赤の女王仮説」(食べるものと食べられるものが、各国の軍拡競争のように攻撃と防御を進化させ続ける関係にあること)で有名である。ただヴァン・ヴァレンは学部長も手を焼くイレギュラーな教授で、講義にギター片手に現れて、自作の歌で持って自身の学説を解説するような人だった。当然、助成金を獲得するような「かったるいこと」なんてできない。それを見かねた学部長が、本人の代わりに助成金の申請書を書いてくれたという(緩いというか、のどかな時代だったわけだ。今だったら盗用・詐称の誹りは免れまい)。しかしヴァン・ヴァレンはせっかくもらった助成金で、ガラス作りのオフィスを自宅の居間に作ってしまった。そうすると、その中にこもって書き物をしながらでも、泣き声や叫び声を気にせず子守ができる(子どもを見張れる)からだという。さすがに皆これに驚き呆れ、結局それが彼の手にした最後の助成金となったそうだ。
そこまで伝説的にエキセントリックではなくとも、あそこには実際にちょっとずれている人たちが多い。蚊の発生を研究している教授は、餌を手に入れるのが面倒臭くなると自分の腕を飼育器に突っ込んで血を吸わせて、蚊の成虫を養っている。学部長は会議の連続で機嫌が悪くなると、ゼブラフィッシュの研究室にやってきて、顕微鏡を覗きながら300個ぐらいのゼブラフィッシュの卵の殻をピンセットでむいて憂さ晴らしをしている(もちろん、実験のために必要な手順ではあるが)。無脊椎動物学の権威だった名誉教授は、大学の池を地元の生態系に即したものに作り変え、そこに毎年やってくるカルガモの親子のファミリーアルバムを作るためにバックパックに収まり切らないようなカメラレンズを持ち歩いている。オフィスそのものが完全に地層と化した古環境学の教授は、その書物の山の中でもどこにどの本があるかを完璧に把握している。
しかしいちど学術的な話になると、皆タフでハードな論客と化し、ハンニバルの兵法書のごとく緻密な論陣を張る。セミナーでは彼らは「鉄砲部隊」と呼ばれる。話の最中であろうとおかまいなしに、容赦ない質問がびゅんびゅん飛んでくるからだ。
で、僕はその学問的野武士集団にいちど入ってみたかったのだ。そして入ってみたら、首までどっぷりつかってしまった。居心地が良かったのである。確かにそれまでがひどすぎたということもあろう。エドモントンでは、やる気のない院生同士が内輪で足を引っ張り合う環境にほとほと嫌気がさしていたのだから(そしておそらく奴らも、僕が出て行ってほっとしたことだろう)。それがシカゴに移ってからは、手懐けられた野良犬のように、くるっと腹を見せ、舌をはあはあ垂らしながら、恥も外聞もなく「もっとここも掻いて。あっちも掻いて」とおねだりするまでになってしまったのだ(つまり、教授たちにまじって嬉々として質問を飛ばしているか、彼らにタフな質問を飛ばされて議論ができるマゾヒスティックな喜びに震えているか、という状態である)。普通だったら、「最高学府だろうが何だろうが、僕は名前になんか絶対ひれ伏さないからな」とまなじりを決しているというのに。
「ブルース・ブラザーズ」の決めの一曲といえば「Sweet Home Chicago」だが、これを聞くと僕はいつもシカゴ・ホワイトソックスのことを考える。シカゴ大学に勤めていて素晴らしいのは、その日研究室に出て行って「今日は何だかかったるいな」と思ったら、インターネットでチケットを買ってキャンパスを抜け出し、バス一本、地下鉄1駅でホワイトソックスの球場まで行けることである。真夏の夕暮れに、 油滴るホットドッグの匂いをかぎながら、シカゴの上空に浮かぶ積乱雲を臨み、眼下には緑豊かなフィールドが広がり、気まぐれな野球観戦に興じるあの背徳的な快感(バッティング練習を観戦に含めればたっぷり5時間、ぽけっと座って白球を目で追っているだけだ)に勝るものなどあろうか。夕焼けがあり、夕立があり、雷も鳴れば虹も出る。そして球場は柔らかい夏の闇と心地よい夕風に包まれる。運良くホワイトソックスが勝てば、球場には「Sweet Home Chicago」が大音量で流れ、僕はダウンタウンの夜景を遠くに眺めつつ長いスロープを降り、同じ地下鉄とバスを乗り継いで、シカゴの中でも殊更に物騒とされる照明の暗い一帯を通り抜け、家路をたどる。
自宅はレイクショアのアパートメントにあり、湖からの風が容赦なく吹き付け、夜になるとパトカーや消防車がサイレンをかき鳴らしてひっきりなしに眼下を行き交う。時折銃声が聞こえることもある。しかし僕も、妻も、息子もそのような都市騒音には慣れてしまった。朝日が登ればまた、平和な1日が戻ってくるのだ。僕はダウンタウンのスカイラインに向かって湖畔を走るかもしれない。フィールド博物館の恐竜や、シェッド水族館の熱帯魚や、オリエンタル博物館のメソポタミア文明の展示や、科学技術館の巨大な鉄道模型を見せに息子を連れて行くかもしれない。あるいはただ電車に乗ってぐるぐるループを回るかもしれないし、近郊連絡線に乗せて郊外へ連れて行くかもしれない。あるいは自宅の窓から、すぐそばを走る線路を見下ろして、見た電車の数を息子と一緒に数えるかもしれない。それとも家庭のことなんか放ったらかして、今度はリグリー・フィールドまで足を運んでカブズの試合を観に行くかもしれない。ここは大都会で、やることは星の数ほどあるのだ。
へい、ベイビー、馴染みの街に帰ろうぜ、スイート・ホーム、シカゴにさ…
…とまあ、シカゴで送った濃い時間を書いていたら、今住んでいるオタワについて書くスペースがなくなってしまった。ここで僕たちは、シカゴとは概念的・理念的にかなり異なる暮らしを送っている。僕たち一家が住んでいる一帯は、オタワの中心地から森を隔てた丘の上にある。このあたりは60年代に開発された地区だが、その当時の区割りがまだ残っていて、住宅地というよりは草深いといったほうが適切かもしれない。夜遅くまで賑やかなシカゴとは違い、夜になると虫の声しか聞こえない。
オタワは一国の首都と思えないほど静かな街だ。人口は100万人に満たず、連邦政府に務める公務員(国立の博物館に勤めている僕も一応そこに入るわけだが)と大学生が目立つ。2ヶ月以上続いたロックダウンも徐々に解除されているが、カナダ自然博物館はまだ休止中であり、再開されるのは9月になってから。僕が新しい研究室に入るのは、おそらく12月ごろまで待たなければいけないだろう。それでも僕たちの日常に、それほど大きな影響はない。ロックダウンの最中でさえ、庭で息子を遊ばせたり、近所の森に連れて行くことが禁止されていたわけではないし、自宅にいるのをこれ幸いと、家具を揃えたり日曜大工をしたり、落ち着くまで本来なら1年ぐらいはかかるところを数ヶ月でやってしまった。
基本的には、シカゴにいた時と同じように、僕たちは三人で小さな世界を作って、その中で暮らしている。その世界の中に近所の人たちや同僚たち、そして森の住人たちが時たまやってくる。庭にはシマリスと赤リスが住み着いていて、庭仕事をしていると僕らの足の間を走り抜けていくこともある。鳥の餌台にはカーディナルスやブルージェイがやってくるし、茂みの裏にはアライグマの一家がいて、作物やコンポストを荒らしにくるので、冷戦状態が続いている。いくらか出来不出来のムラはあるけれど、菜園からの収穫は悪くない。ここ二週間は庭でとれたトマトばかり食卓に出さざるを得ず、いささか食傷気味である。7月には庭にホタルがやってきて、夜になると菜園のあたりをふらふらと飛び回っていた。
実際にきつかったのは、シカゴを去ってオタワに引っ越すまでの数週間だった。急展開する事態に浮き足立ち、僕たちは出発を早めた。すでにアメリカ・カナダ国境は閉まっていて、僕たちはオタワの一角にあるアパートでの自己隔離を余儀なくされた。室内に閉じ込められた状態で、僕は新しいポジションに着任し、リモートワークを始めなければならなかった。ようやくこの家に入居できたのは、二週間後だった。
自己隔離中に僕がよく思い出したのは2013年の春、ボストン・マラソン爆破事件だ。爆破当時、僕はハーヴァード大学での調査研究のためにボストン近郊にいた。同僚のアパートに泊まっていたのだけれど、そこは爆破犯のアパートからわずかに百メートルほどしか離れていない場所で、僕たちは爆破犯を追い詰めるためのロックダウン・マンハントのど真ん中にいたのである。ロックダウンが解除された翌朝、ボストンの人たちは何事もなかったかのように日常を取り戻していた。いつも通りに行動することが、テロに屈しない唯一の意思表明の手段であると、皆暗黙のうちに理解していたようだった。僕はそこに、外から見ていてはわかりえない、アメリカの真の姿(の一面)を見たのである。
その「かくあるべき」アメリカのイメージが音を立てて崩れ、根深い社会問題に疲弊したシカゴの街がコロナ禍の中で急速に内在的なエネルギーを失っていくのを、僕は今、国境の北側から眺めている。そこに悲しみはない。でも寂しさはある。南極の氷床の崩壊をテレビの画面を通して見ているみたいに。僕の息子は、おそらくシカゴっ子と呼ぶこともできるだろう。何といっても幼少期の2年間をそこで過ごし、オタワに引っ越して半年近くがたった今でもシカゴのことばっかり喋くっているのだから。でも彼は大きくなった時に、僕が「ブルース・ブラザーズ」と観て感じたようなノスタルジアを理解できるだろうか。
ボストン・マラソン爆破事件のあと、フェンウェイ・パークで開かれた初めての試合で、レッドソックスの主将デイヴィッド・オルティーズはマイクを握って短いスピーチを行った。
「ここは俺たちの街だ。何の脅威であろうと、俺たちは屈しない」
庭に作ったフェンウェイ・パークを見ながら僕はそのことを考えている。これもまた、コロナとの闘いのひとつの形なのだ。